Inner Growth

内面の探究・人間存在の考察

考えない時間が必要なのはなぜか|思考という道具との向き合い方

人間は、考える存在です。過去を振り返り、未来を想像し、目の前の出来事を分析しながら、さまざまな選択を重ねて生きています。

この「考える力」は、人間が持つ優れた能力の一つです。私たちは思考によって知識を積み重ね、問題を解決し、文明や科学、芸術、社会を発展させてきました。

しかし、その一方で、私たちは思考によって苦しむこともあります。まだ起きていない未来を心配し、すでに終わった出来事を何度も思い返し、誰かに言われた言葉を繰り返し考えたり、自分を責め続けたりすることがあります。

本来、思考は私たちの人生を助けるための道具であるはずです。それなのに、ときとして思考そのものが人生を支配しているかのように感じられることがあります。

なぜ、そのようなことが起きるのでしょうか。その理由を見つめることで、私たちに「考えない時間」が必要な意味も見えてくるのだと思います。

 

思考は、人間に与えられた優れた道具である

思考そのものが悪いわけではありません。むしろ、高度な思考能力は人間の大きな特徴の一つであり、未来を計画し、問題を分析し、経験から学び、新しいものを創造するために欠かせない働きをしています。

私たちは思考によって、目の前に存在しないものを想像することができます。まだ起きていない出来事を予測して準備を整えたり、過去の経験を振り返って次の行動を考えたりすることもできます。その能力があるからこそ、人類は文化や社会を築き、知識を積み重ねてきました。

私は、思考は包丁によく似ていると思います。料理をするとき、包丁は食材を切り分け、形を整え、さまざまな料理を生み出すために役立ちます。しかし、使い方を誤れば、自分や他者を傷つけることもあります。

包丁そのものに善悪があるわけではなく、誰がどのように使うかによって、その働きは変わります。思考も同じように、人生を豊かにするために役立つこともあれば、苦しみを大きくする方向へ働くこともあります。

問題は、思考という能力が存在することではありません。自分が思考を使っているのか、それとも思考に動かされているのかという関係にあります。

例えば、仕事上の問題を解決するために考え、必要な判断を下すことは、思考を道具として使っている状態です。しかし、すでに仕事が終わっているにもかかわらず、同じ問題について何度も考え続け、休んでいる間も頭から離れないことがあります。

休日にも仕事のことが気になり、眠る直前まで明日の予定を考え、朝目覚めた瞬間から心配事が浮かんでくる。そのような状態が続くと、自分の意思で考えているというより、思考に考えさせられているように感じられることがあります。

本来は必要なときに使うための道具が、いつの間にか自分の行動や感情を左右する主人のようになっているのです。

 

人は、なぜ考え続けてしまうのか

人間の思考には、危険を予測し、失敗を避け、これから起こるかもしれない問題に備えるという重要な働きがあります。私たちは目の前に危険が現れてから行動するだけでなく、起こり得ることを想像し、あらかじめ対処することができます。

しかし、その能力が過剰に働くと、実際には起きていない出来事についても、繰り返し心配するようになることがあります。

例えば、仕事で失敗したらどうしよう、あの人は自分をどう思っているのだろう、もっと準備しなければ問題が起きるのではないかと考え続けることがあります。思考は未来の可能性を次々に描き、その一つひとつに対処しようとします。

もちろん、心配することが現実的な準備につながる場合もあります。しかし、どれほど考えても答えが出ないことや、今の自分にはどうすることもできないことについてまで考え続けると、思考は問題解決のための働きから、苦しさを繰り返す働きへと変わってしまいます。

身体は安全な場所にいても、頭の中では危険な出来事が繰り返し想像され、気持ちが落ち着かなくなることがあります。すでに終わった出来事についても、あのとき別の言葉を選んでいればよかった、なぜあんな行動をしたのだろうと考え続けることで、過去の経験に何度も意識を向けてしまうのです。

さらに、現代社会では、思考を働かせるきっかけが日常の至るところにあります。ニュースやSNS、動画、広告、メールなどを通して次々と情報が届き、そのたびに私たちは内容を理解し、評価し、比較し、判断しています。

仕事や人間関係でも、考えることは絶えません。何を優先するべきか、どのように伝えればよいか、相手はどう受け取ったのかといったことを、日々考えながら生活しています。

休憩時間になっても、スマートフォンを開けば新しい情報が流れ込んできます。身体を休めているつもりでも、頭の中では次々と別のことを考えている場合があります。

このような生活が続けば、思考による負担が大きくなるのも自然なことでしょう。だからこそ、身体を休ませることと同じように、考えることから少し離れる時間にも意味があるのだと思います。

 

考えない時間は、思考を否定することではない

「考えない時間をつくる」と聞くと、思考を止めたり、頭の中を完全に空白にしたりすることを想像するかもしれません。しかし、ここで考えたいのは、思考そのものをなくすことではありません。

私たちが生きていくためには、判断も計画も必要です。仕事を進めるときにも、人間関係を築くときにも、何かを学び、創造するときにも、思考は大切な役割を果たしています。

問題になるのは、考える必要のないときにも思考を働かせ続け、それ以外の状態を忘れてしまうことです。

先ほどの包丁の例で考えるなら、料理人は必要なときに包丁を手に取り、使い終われば置きます。包丁が便利だからといって、一日中握り続けるわけではありません。

思考も同じように、必要な場面では十分に働かせ、それ以外の時間には少し離れることができます。考えることと、考えずに過ごすことの両方が、私たちの生活にはあってよいのです。

例えば、自然の中を歩いているとき、目の前の景色を分析したり、何かの意味を探したりしなくても、風の音や鳥の声、木々の揺れを感じることができます。好きな音楽を聴いているときにも、曲の構造を考えなくても、その音に耳を傾けることができます。

私たちは普段、言葉によって物事を理解し、評価し、意味づけています。しかし、思考が少し静まると、そうした言葉による判断を介さずに、目の前のものを感じられることがあります。

呼吸の感覚や身体の緊張、周囲の音や景色など、いつも存在していたものに改めて気づくこともあるでしょう。

それらは、思考を止めたことで新しく生まれたものではありません。考えることに意識が向いていたために、十分に感じられていなかったものです。

考えない時間とは、何も存在しない空白の時間ではなく、思考以外の働きにも意識を向けられる時間なのだと思います。

 

「考える私」と「思考を見ている私」

ここで、もう一つ大切な視点があります。それは、自分の中に生まれる思考と、その思考に気づいている意識との関係です。

私たちは日常の中で、何かを考えている自分に気づくことがあります。例えば、同じことを何度も考えていると気づいたり、考えすぎていると感じたりする瞬間があります。

そのとき、自分の中では思考が働いていると同時に、その働きを見つめる意識も生じています。

私は、この違いに気づくことには大きな意味があると考えています。

思考に完全に巻き込まれているときには、頭の中に浮かぶ言葉が、そのまま現実であるかのように感じられることがあります。まだ起きていない未来についての心配も、過去の出来事に対する後悔も、今の自分にとって非常に大きな問題として感じられるでしょう。

しかし、「私は今、このようなことを考えている」と気づくと、思考そのものと自分との間に、少し距離が生まれることがあります。

例えば、誰かに嫌われたのではないかという考えが浮かんだとき、それを事実として受け取るのではなく、自分の中にそのような考えが生まれていることに気づくことができます。すると、その考えが本当に事実なのか、今すぐ何かをする必要があるのかを、改めて見つめられる場合があります。

このように、思考を見つめる視点が生まれると、頭の中に浮かぶすべての言葉に従わなくてもよいことが、少しずつわかってきます。

私にとって、これは単なる思考の整理ではありません。自分の本質を思考そのものと同一視せず、その働きを見つめている意識へと立ち戻ることでもあります。

もちろん、思考が浮かぶことを悪いものとして捉える必要はありません。考えが生まれたことに気づき、必要であればその内容を検討し、必要がなければそのままにしておく。そのような関わり方もできます。

思考を無理に止めようとすると、かえって考えることに意識が向いてしまう場合があります。だからこそ、何も考えてはいけないと自分に命じるのではなく、思考が働いていることを知り、その働きに必要以上に巻き込まれないことが大切なのだと思います。

 

考えない時間は、自分へ戻る時間でもある

考えることから少し離れるために、特別な方法が必要なわけではありません。静かに座って呼吸を感じたり、自然の中を歩いたり、空を見上げたり、好きな音楽に耳を澄ませたりする時間でもよいのです。

何かを達成しようとせず、ただその時間を過ごしてみることにも意味があります。日常生活の中で、ほんの少し立ち止まり、自分の内側や目の前の現実へ意識を向けるだけでも、普段とは異なる感覚に気づくことがあります。

そのような時間には、思考が少し静まり、自分の内側にもともとあった穏やかさに触れられることがあります。

それは、新しく何かを手に入れるというより、考え続けている間には見えにくくなっていた静けさに、改めて気づくようなものです。

ただし、いつも穏やかになれるとは限りません。静かに過ごそうとしたことで、かえってさまざまな考えや感情が浮かんでくることもあるでしょう。それでも、うまく考えない状態をつくろうとする必要はありません。

思考が浮かんでいるなら、そのことに気づけばよいのです。自分の中で何が起きているのかを見つめることも、思考との関係を知るための一つの経験になります。

思考は、人間に与えられた素晴らしい能力です。私たちはその力によって、問題を解決し、新しいものを生み出し、これからの人生を考えることができます。

だからこそ、思考を否定する必要はありません。大切なのは、思考を自分のすべてだと思い込まず、必要なときに使うことのできる道具として理解することです。

現代社会では、考え続けることが当たり前になっています。しかし、人生は考えることだけで成り立っているわけではありません。感じることや味わうこと、何も求めずに過ごすことも、私たちが生きている時間の一部です。

思考を働かせる時間と、そこから離れる時間。その両方があることで、思考は本来の力を発揮しやすくなり、私たち自身も、頭の中の言葉だけに支配されずに生きられるようになるのだと思います。

考えない時間を持つことは、思考を捨てることではありません。思考という道具をいったん置き、その奥にある自分自身の静けさへ戻ることなのです。

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