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日本人の意識レベルをどう見るか|ホーキンズ博士の意識のマップと日本社会の認識構造

デヴィッド・R・ホーキンズ博士が提唱した「意識のマップ」は、人間の意識状態を1から1000までの対数スケールで示したものです。このマップでは、意識レベル200未満が「フォース(Force)」の領域、200以上が「パワー(Power)」の領域とされます。200未満では、恐れ、怒り、欲望、プライドなど、欠乏や防衛に基づいた力が働きやすくなります。一方、200以上では、勇気、受容、理性、愛、平和といった、より建設的で調和的な意識状態が現れていきます。

その中で、ホーキンズ博士は日本人について興味深い測定結果を示しています。2008年に公開された対談において、博士は当時の人類全体の平均意識レベルを204とし、日本人の平均意識レベルを400以上と述べています。博士の体系では、400台は「理性(Reason)」の領域です。

では、日本人の平均意識レベルが400以上であるということを、私たちはどのように受け取ればよいのでしょうか。単に「日本人は意識レベルが高い」と捉えるだけでは、そこから見えてくるものはあまり多くありません。それよりも興味深いのは、400以上と測定された日本という集合意識が、実際の社会や文化の中にどのような形で現れているのかを見ることです。

日本社会には、秩序、責任、公共性、他者への配慮、細部への注意といった特徴があります。一方で、同調圧力、自己抑制、失敗への恐れ、周囲の期待を優先しすぎる傾向もあります。一見すると反対に見えるこれらの性質は、実は同じ認識構造の異なる現れなのかもしれません。

この記事では、ホーキンズ博士の意識のマップを手がかりに、日本人の優劣を論じるのではなく、日本という社会の内側にある意識の構造について考えていきます。

 

ホーキンズ博士が示した「日本人400以上」という測定

ホーキンズ博士の意識のマップにおいて、400台は「理性(Reason)」の領域です。ここでは、論理的思考、分析、客観性、科学的理解、体系化といった働きが発達します。感情や衝動にそのまま動かされるのではなく、事実を整理し、筋道を立て、世界を理解しようとする意識です。

博士は、キネシオロジーを用いて意識レベルを測定しました。これは、一般的なアンケート調査や心理検査によって日本人の意識を統計的に測定したという意味ではありません。ホーキンズ博士が構築した意識研究の方法によって、日本人の集合的な意識レベルが400以上と測定された、ということです。

ここで重要なのは、この数字だけを切り離して見るのではなく、博士の体系の中で400以上という値が何を意味しているのかを見ることです。400台の理性は、人間が感情的反応や個人的欲求だけに支配される状態を超え、より広い視野から世界を理解し、秩序を形成していく領域です。教育、医療、科学、法律、行政、技術、経済など、複雑な社会を維持する多くの仕組みも、こうした理性の働きによって支えられています。

その視点から日本社会を見ると、400以上という測定結果と重なって見える特徴がいくつもあります。

 

日本社会に現れている秩序と理性

日本では、時間を守ること、約束を守ること、自分の役割を果たすこと、公共の場で周囲に配慮すること、仕事の品質を細部まで整えることなどが広く求められています。電車の正確な運行、比較的清潔に保たれた公共空間、細かな品質管理、サービスにおける配慮なども、こうした社会的性質の現れでしょう。

そこにあるのは、単なる規則への服従だけではありません。自分の行動が他者や全体にどのような影響を与えるのかを考え、それに応じて自分を調整するという働きがあります。個人の欲求をそのまま外へ出すのではなく、より広い関係の中で自分の行動を位置づける。この性質は、多くの人間が共同して生活する社会を安定させる大きな力になります。

さらに日本では、明文化された規則だけでなく、その場にいる人の表情や声の調子、言葉にされていない意図、その場全体の雰囲気まで読み取りながら行動することが求められる場面があります。「空気を読む」という言葉があるように、日本社会では、明示されていない情報を察し、自分の振る舞いを調整する感覚が発達しています。

これは、ホーキンズ博士のいう「理性」だけですべて説明できるものではないでしょう。日本社会には、理性的な秩序だけでなく、長い歴史の中で形成されてきた共同体感覚や、調和を重んじる感性、言葉にされないものを察する文化も存在しています。400以上という測定を日本社会と重ねて考えるとき、私たちは単なる論理的思考力だけではなく、こうした複数の性質が重なった集合意識を見る必要があります。

 

同じ行動でも、その内側にある意識は同じではない

ここでもう一つ考えておきたいことがあります。それは、外から見える行動と、その行動を生み出している意識は、必ずしも同じではないということです。

たとえば、「他人に迷惑をかけない」という日本社会でよく見られる価値観があります。それは、相手を大切に思う気持ちから生まれることもあります。自分の行動が周囲に与える影響を理性的に考えた結果かもしれません。しかし一方では、「迷惑をかけたら嫌われる」「周囲から批判されたくない」「集団から外れたくない」という恐れから同じ行動を取ることもあります。

外から見れば、どちらも礼儀正しく、周囲に配慮している人です。しかし、その内側で働いている意識は異なります。

これは、ホーキンズ博士の意識のマップを考える上でも重要な点です。意識のマップが示しているのは、単なる行動の分類ではありません。同じ行為であっても、恐れから行うのか、プライドから行うのか、理性的判断から行うのか、愛から自然に行うのかによって、その内側にあるものは異なります。

そう考えると、日本社会の秩序や礼儀正しさを、そのまま「400の証拠」として扱う必要はありません。むしろ、400以上と測定された集合意識を背景に持つ社会の中にも、さまざまな意識状態が存在しており、それらが重なりながら一つの社会を形成していると見る方が自然でしょう。

 

日本社会の強さと苦しさは、同じ場所から生まれる

日本社会には、高い秩序を維持する力があります。しかし、その秩序を支えている性質は、ときに人を苦しめるものにもなります。

周囲に配慮することは、人間関係を円滑にします。しかし、他者を優先し続ければ、自分の感情や意思を抑えることにつながります。責任感は社会を支える大きな力ですが、「迷惑をかけてはいけない」「失敗してはいけない」「期待に応えなければならない」という意識が強くなれば、人を追い詰めることもあります。場の調和を守ることも、異なる意見や生き方を受け入れられなくなれば、同調圧力へ変わります。

つまり、日本社会の強さと苦しさは、必ずしも別々の場所から生まれているわけではありません。場を乱さない。周囲を察する。自分を律する。責任を果たす。こうした性質が、高い公共性や信頼を生み出す一方で、本音を言えない、違和感を表明できない、自分の感覚より周囲の期待を優先してしまうという苦しさにもつながっています。

ここには、日本社会を見る上で重要な問いがあります。問題なのは、日本人が周囲を気にすることそのものなのでしょうか。それとも、その行動がどのような意識から生まれているのかなのでしょうか。

同じ「周囲への配慮」であっても、恐れから自分を抑えることと、相手への愛から自然に配慮することは違います。同じ「責任を果たす」という行為でも、義務に押しつぶされながら行うことと、自分が担うものを理解して引き受けることでは、その内側の質が異なります。

外側の行動だけを変えるのではなく、その行動を生み出している意識を見る。そこに、ホーキンズ博士の意識のマップから日本社会を見る意味の一つがあるように思います。

 

400の理性から、500の愛へ

ホーキンズ博士の意識のマップでは、400台の理性の上に、500の「愛(Love)」があります。その先には、喜び(540)、平和(600)、悟り(700〜1000)が置かれています。

ここでいう愛は、恋愛感情や特定の相手に対する好意ではありません。相手が期待に応えてくれるから愛する、役に立つから大切にする、正しいから認めるという条件付きのものではなく、存在そのものに対して開かれている状態です。

理性は、「何が正しいのか」「なぜそうなるのか」を理解しようとします。物事を区別し、整理し、体系化するためには欠かせません。しかし、人間には理性だけでは扱いきれないものがあります。悲しみや喪失、説明できない直感、矛盾を抱えた人間そのもの、合理的には理解できない選択、言葉にできない経験。理性はそれらを分析することはできますが、分析することと、その存在を受け入れることは同じではありません。

だからこそ、400から500への移行は、理性を捨てることではないのだと思います。理性によって築いてきたものを失うのではなく、理性だけでは包みきれなかったものまで受け入れられるようになることです。

この視点から見ると、日本社会が持つ性質にも別の可能性が見えてきます。

 

「合わせる」ことと「調和する」ことは同じではない

日本社会では、「和」が大切にされてきました。しかし、和と同調は同じではありません。

自分の意見を消して周囲に合わせることでも、違う人を排除して全員を同じにすることでもなく、それぞれが異なるまま関係を保つことも、本来は調和の一つの形です。

ところが、調和を保とうとする力に恐れが加わると、「周囲と違ってはいけない」という同調へ変わることがあります。責任感に恐れが加われば、「失敗してはいけない」という緊張になります。他者への配慮に自己否定が加われば、「自分より他人を優先しなければならない」という自己犠牲になります。

反対に、同じ性質がより開かれた意識から働けば、別の姿になります。違う人がいても場を保つことができる。自分の意見を持ちながら相手を尊重できる。責任を果たしながら、自分自身も大切にできる。周囲に配慮しながら、自分の本音を失わない。

日本社会に見られる同調や自己抑制を考えたとき、一人ひとりの自由や自己決定がより尊重されることは、一つの方向でしょう。しかし、日本社会に必要なのは、秩序や調和を捨てて、より個人主義的な社会になることだけではないのかもしれません。

もう一つ考えられるのは、全体を大切にするという日本社会の性質そのものを失うのではなく、その「全体との関わり方」が変わっていくことです。周囲に合わせることで保たれる調和から、違いを含むことのできる調和へ。自分を抑えることで成り立つ秩序から、一人ひとりが自分でありながら共にいられる秩序へ。

日本がすでに持っている「全体を見る力」の中に、個人の自由や違いまで含められるようになる。それは、個人と全体のどちらかを選ぶことではなく、両方を含む方向への変化とも考えられます。そのような変化を、ホーキンズ博士のいう理性から愛への移行と重ねて見ることもできるのかもしれません。

 

集合意識としての日本

「日本人の平均意識レベルが400以上」という話を考えるとき、個々の日本人を一人ひとり400以上だと考える必要はありません。人間の意識状態は一定ではなく、同じ人でも、仕事では冷静に判断できる一方、家族との関係では感情的になることがあります。ある日は穏やかでも、別の日には恐れや怒りに支配されることもあります。

ここで見るべきなのは、日本という場に形成されている集合的な意識です。人は生まれたときから、言語を学び、家庭や学校で規範を学び、社会の中で何が望ましい行動なのかを身につけていきます。文化、教育、礼儀、共同体感覚、自然観、時間感覚など、長い時間をかけて形成されたものの中で、人間の認識も形づくられていきます。

同時に、ホーキンズ博士の体系では、意識は単なる社会的学習だけに還元されるものではありません。個々の意識は集合的な意識と関わり、意識そのものが非線形な形で場に影響すると考えられています。

この視点に立つと、日本社会について考える問いも変わってきます。日本人がどのような行動をするのかだけではなく、この社会の中で、どのような意識が支えられ、どのような意識が表に現れやすいのか。そして、日本という場そのものが、人々の意識にどのような影響を与えているのか。

「日本人400以上」という測定は、そうした集合意識について考える入口にもなります。

 

日本社会が持つ「静かなる守護」

日本社会を見ていると、私は一つ興味深い性質を感じます。前に出て世界を導こうとするよりも、場を整える。強く自己主張するよりも、周囲を見ながら必要なことをする。誰かに評価されなくても、自分の役割を果たす。目立つ人だけではなく、見えないところで多くの人が役割を果たすことで、全体が保たれている。

私は、この性質を「静かなる守護」と呼んでもよいのではないかと思っています。

もちろん、この性質を無条件に美化することはできません。同じ性質が、自己犠牲や過剰な同調として現れることもあります。しかし、その問題があるからといって、その奥にある「全体を支えようとする感性」まで否定する必要はないでしょう。

重要なのは、その力がどこから生まれているかです。「周囲に合わせなければならない」から支えるのか。それとも、大切だから支えるのか。「迷惑をかけてはいけない」という恐れから配慮するのか。それとも、相手を一人の存在として感じるから配慮するのか。外側から見れば似た行動であっても、その内側にある意識は異なります。

もし日本社会が持つこの性質から、恐れや自己犠牲による部分が少しずつほどけていくなら、「静かなる守護」は失われるのではなく、より自由な形へ変わっていくのかもしれません。全体を大切にしながら、個人も失わない。秩序を保ちながら、違いも許す。責任を引き受けながら、自分自身を犠牲にしない。

そこに、日本社会における「400から500へ」という変化の一つの姿を見ることができます。

 

日本人の意識レベルを考える意味

日本人の平均意識レベルが400以上であるというホーキンズ博士の測定は、それ自体とても興味深いものです。しかし、その数字を知るだけで終わるのではなく、そこから日本という社会を見ていくと、さらに多くの問いが現れてきます。

なぜ日本では秩序がこれほど重視されるのか。なぜ他者への迷惑を強く意識するのか。なぜ言葉にされていないものを察しようとするのか。なぜ責任を引き受けすぎることがあるのか。なぜ調和を大切にする文化が、ときに強い同調圧力を生み出すのか。

そして、もう一つ重要なのは、そのような社会の中で、自分自身が何を起点として生きているのかという問いです。同じ配慮でも、恐れから生まれる配慮と愛から生まれる配慮は違います。同じ責任でも、自分を縛る責任と、自ら引き受ける責任は違います。同じ調和でも、自分を消して成立する調和と、違いを含んだまま成立する調和は違います。

そう考えると、「日本人の意識レベル」というテーマは、日本人が世界の中でどれほど高い位置にいるのかを確認するためのものではありません。日本という集合意識の中に何があり、そこから私たちはどのような意識へ開かれていくことができるのかを考えるための問いになります。

 

まとめ|日本という集合意識は、どこへ開かれていくのか

ホーキンズ博士は、キネシオロジーによる測定から、日本人の平均意識レベルを400以上としています。博士の意識のマップにおいて、400台は理性の領域です。

その視点から日本社会を見ると、秩序、責任感、公共性、正確さ、他者への配慮といった特徴が見えてきます。しかし、それだけではありません。同じ社会的性質が、同調圧力、自己抑制、失敗への恐れ、過剰な責任感として現れることもあります。

大切なのは、外側に現れている行動だけではなく、その行動がどのような意識から生まれているのかを見ることです。

恐れから秩序を守ることと、理性によって秩序を理解すること。周囲から排除されないために合わせることと、相手を尊重して調和すること。自分を犠牲にして誰かを支えることと、愛から自然に誰かを支えること。それらは、外から見れば似ていても、内側では異なるものです。

日本社会がこれまで育んできた秩序や調和を手放す必要はないのでしょう。むしろ、その中に含まれている恐れや自己抑制を見つめながら、すでに持っている強さを、より自由な意識の中で生かしていく。

理性を失わず、その先へ開かれていく。秩序を保ちながら、自由を許す。全体を大切にしながら、一人ひとりの違いも大切にする。

もしホーキンズ博士が示した400以上という測定から、日本社会についてさらに考えていくなら、その先にあるのは「日本人は意識レベルが高い」という結論ではなく、日本という集合意識がこれまで何を育み、これからどのような意識へ開かれていくのかという、より深い問いなのだと思います。

 

参考資料


Quest Cafe「Vol.15 デイヴィッド・R・ホーキンズさん|2008新年特別インタビュー 意識の進化と日本人の役割。」 https://questcafe.jp/old/interview/interview_vol015.html

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