
分離と統合 二つの「私」の質感について
ある人が「『私』という言葉を使う人はエゴに支配されている」と語っていました。
「私」という言葉を使うことは、本当にエゴの現れなのでしょうか。
言葉はあくまで器のようなものであり、その言葉自体がエゴなのではありません。
大切なのは、文章や話の文脈から、その奥にある「エネルギーの出どころ」を掴むことです。
二つの「私」
「私」という響きには、大きく分けて二つの源泉があります。
- エゴとしての「私」:他者との分離を前提とし、自己を固執させるエネルギー。
- 真我(ハイヤーセルフ)としての「私」:「私は在る」という静かな実存に基づいた、透明な響き。
どちらの「私」としてその言葉を放っているのか。
その自覚の深さが、言葉の質感を変えていきます。
受け取る側が人生の深さを決める
発信者の意図以上に重要なのは、受け取る側がそれをどう掴むかという点です。
言葉をエゴの次元で捉えるのか、あるいは真我の共鳴として深く受容するのか。
その受け取り方の選択によって、その後の人生や体験の深さが決まっていくのだと、私は考えます。
全ては一つであるという意識
意識の階層的な表現として、さまざまな次元が存在しますが、究極的には「あなたも私も、全ては一つ」です。
それ以上のものはありません。
その一元的な視点に立って言葉を眺めるとき、「私」という言葉は分離の道具ではなく、全体が自らを表現するための純粋な響きへと還っていくのです。
言葉という二元の限界を超えて
いま、こうして綴っている文章自体も、また「二元」の中にあります。
「エゴ」と「真我」、「分離」と「統合」といった対比を用いること自体、言葉が持つ構造上の限界かもしれません。
しかし、二元の言葉を使いながら、二元を超えた場所を指し示す。
その矛盾を抱えながらも、言葉の奥にある「一元の質感」を掴もうとするとき、私たちは概念を超えた真実へと一歩近づけるのではないかと思っています。
一滴の雫に宿る海
たとえ私たちが、エゴという硬い質感の中に身を置いていたとしても、その奥底に流れる「真理の海」が失われることはありません。
「私」という言葉を使い、個として生きるこの豊かな経験さえも、大きな命が描く一時のゆらぎに過ぎないのです。
言葉が紡ぎ出す二元の世界を軽やかに遊びながら、その奥にある「語り得ぬ一元」を、ただ静かに感じてみてください。
私たちはいつだって、大海の一滴であり、海そのものなのですから。
