Inner Growth

内面の成長・気づきのコラム

  • HOME
  • Insights
  • Inner Growth
  • 人はいつ、他者を「他人」と呼び始めるのか 娘のひと言が教えてくれた分離以前の世界

人はいつ、他者を「他人」と呼び始めるのか 娘のひと言が教えてくれた分離以前の世界

公園のベンチで、ふと立ち止まったときのことです。

当時3歳だった娘が、少し離れた場所で遊んでいる同年代の子どもを見つけて、弾んだ声でこう言いました。

「あ、お友達!」

その子は、名前も知りません。

今日初めて会ったばかりです。

親同士も面識はありません。

けれど娘にとって、その子は最初から「お友達」でした。

私はその一言に、少し立ち止まりました。

なぜなら、大人である私たちは、そうは見ないからです。

知らない人。

他人。

関係のない人。

多くの場合、まずそのように認識します。

では、人はいつから、目の前にいる存在を「お友達」ではなく、「他人」として認識するようになるのでしょうか。

 

子どもには、まだ強い境界線がない

幼い子どもを見ていると、世界の捉え方が大人とはかなり違うことに気づきます。

もちろん、好き嫌いや警戒心がまったくないわけではありません。

けれど、大人ほど明確な境界線を持っていないことが多い。

自分。

家族。

知らない人。

敵。

味方。

こうした細かな区分が、まだ強固に形成されていないのです。

だからこそ、目の前にいる同年代の子どもを見て、自然に「お友達」と呼べる。

そこには、複雑な判断がありません。

条件もありません。

比較もありません。

ただ、「同じ場所にいる存在」として自然に認識しているだけです。

 

私たちは、社会化の中で境界線を学ぶ

しかし成長するにつれて、私たちは少しずつ世界の見方を学んでいきます。

知らない人には気をつけなさい。

距離感を守りなさい。

誰でも信用してはいけない。

こうした学びは、生きていくうえで必要なものでもあります。

社会にはルールがあり、境界線があり、適切な距離感があります。

それ自体は悪いことではありません。

むしろ、人間社会を生きるうえでは必要な機能です。

問題は、この境界線があまりにも強固になりすぎることです。

すると私たちは、他者を「関係のない存在」として認識するようになります。

さらに進むと、他者は比較対象になり、競争相手になり、警戒対象にもなります。

こうして、分離意識は少しずつ強化されていきます。

 

分離は、認識構造でもある

ここで重要なのは、分離は単なる感覚ではないということです。

それは、認識構造でもあります。

私たちは、世界をそのまま見ているわけではありません。

過去の経験。

記憶。

価値観。

観念。

恐れ。

防衛反応。

そうしたものを通して世界を見ています。

その結果、本来は連続している世界を、自分の認識の中で細かく分け始めます。

自分と他人。

内側と外側。

安全と危険。

味方と敵。

この構造が強まるほど、世界は断片化して見えていきます。

 

統合とは、境界線を消すことではない

ここで誤解しやすいことがあります。

統合とは、境界線を完全になくすことではありません。

社会には境界線が必要です。

適切な距離感も必要です。

自分を守る機能も必要です。

大切なのは、それらを絶対的なものだと思い込まないことです。

境界線を持ちながら、それに完全に支配されないこと。

個として存在しながら、分離だけを真実だと思わないこと。

ここに統合があります。

成熟とは、分離を否定することではありません。

分離を理解した上で、その奥にあるつながりも同時に見えることです。

 

分離以前の感覚は、今も失われていない

娘の「あ、お友達!」という一言は、とてもシンプルでした。

けれど、その中には、人間がもともと持っていた感覚が表れているように思えました。

私たちは成長の中で、多くの境界線を学びます。

そして、その多くは必要なものです。

けれど同時に、境界線を学ぶ過程で、何かを見失っていくこともあります。

本来あった、自然なつながりの感覚です。

それは完全に失われたわけではありません。

ただ、社会化の奥に隠れているだけかもしれません。

もし今、世界が断片化して見えるなら。

もし、人との間に強い分離を感じているなら。

一度だけ、3歳の視点を思い出してみてもいいのかもしれません。

私たちはいつから、他者を「他人」と呼ぶようになったのか。

そして、その前には、どのような世界が見えていたのか。

その問いは、人間理解を深める入口になるように思います。

関連記事