
手放す。明け渡す。ゆだねることで見えてくる本当の自由
体は宇宙の影響下にあり、自分という感覚が動かすのではない。
明け渡すと、すべて自動的に「ありのままの姿」が観察される世界として立ち現れる。
その状態へとゆだねることが適切であり、それ以下のことは多くあっても、それ以上にはなり得ない。
つまり、思考と非難(自我意識による判断)がそれを妨げることであり、本質的な意味での自由意思を奪っているとも言える。
力を抜いたとき、すべてが整い始めた
ある日、仕事に追われて疲弊していた私は、ふと立ち寄った公園でただ空を見上げていました。
「もう、頑張るのをやめたい」と、心の奥底から声が漏れたその瞬間、風の音、雲の流れ、鳥の羽ばたきが、いつもより遥かに鮮明に感じられたのです。
そのとき、私は気づいたのです。
「自分が動かしている」と思っていた体も人生も、実はもっと大きな流れに抱かれていたのではないか?
この気づきは、あなたにもきっと関係のある話かもしれません。
なぜ私たちは「すべてをコントロールしたがる」のか?
現代社会は、自己責任と能動性を重視します。
「もっと頑張ろう」「自己管理が大切」といったメッセージが、私たちの内側に深く根付いています。
しかしその一方で、私たちの体の多くの営みは「意識的な操作」なくして自然に行われています。
心臓は眠っていても動き続け、呼吸も止めようとしなければ勝手に続いていきます。
この事実は、私たちが思っている以上に、
「宇宙の摂理の一部として生きている」
ということを物語っているのです。
「自分で動かしている」という幻想と、自我の限界
私たちは「思考する私」が行動を選択していると感じています。
しかし、その選択の多くは無意識のプログラム、たとえば、過去の記憶、恐れ、他人の目などによって決まっています。
つまり「自由意思」と思っていたものが、実は自我の条件反射だった、ということもあるのです。
そしてこの自我意識は、しばしば現実に対して判断を下し、非難し、抵抗しようとします。
そのたびに、本来の静けさや調和から遠ざかってしまうのです。
明け渡すという選択 宇宙と調和する「ゆだねる」という知性
「何とかしよう」とするのをやめて、ただ今この瞬間に身を明け渡す。
すると、驚くほど多くのことが「自然な流れの中で整っていく」経験をする人は少なくありません。
ここでいう「明け渡し」とは、諦めではありません。
それは、思考の領域を超えて、もっと大きな叡智(いわば宇宙的な知性)に信頼するということです。
この状態では、物事が「あるがまま」に見えてきます。
抵抗のない世界、そこには真実と静寂が息づいています。
本質的な自由意思とは「自我を超えた選択」である
自我の枠組みから選ばれるものは、しばしば恐れやコントロールの延長線上にあります。
しかし、明け渡しの中で起こる選択は、もっと深い内側からやってきます。
それは「選ぶ」というよりも、「自然にそうなる」と言ったほうが近いかもしれません。
このとき初めて、私たちは本当の意味で自由になります。
「それ以上にはなり得ない」 最も高い選択とは「ゆだねる」こと
たとえどれほど立派な目標を立てても、それが自我の範囲内である限り、限界があります。
けれども、「ゆだねる」ことで触れる領域…そこには限界がありません。
それは、宇宙の流れに身を重ねるということ。
そこでは、私たちの体も心も、自然に整えられていくのです。
だからこそ、「明け渡す」ことは「放棄」ではなく、むしろ最も高次の行為である…。
それ以下のことは多くあっても、それ以上にはなり得ないのです。
あなたの体はあなた以上の何かによって生かされている
自分で「動かしている」と思っていた体も、宇宙のリズムの中にあります。
思考や自我が判断しようとすることで、自由意思はむしろ制限されます。
「ゆだねる」ことで、ありのままの世界が現れ、自然な選択が起こります。
最も高い「行動」は、無理やりの努力ではなく、明け渡しの中にあります。
本当の自由と調和は、思考の先ではなく、思考を超えたところにあります。