
小さな経営の現場で見えた社会のルール|経営者になって初めて見えた「構造」の存在
私たちは、社会の中で生きています。
働き、お金を受け取り、何かを買い、また働く。
その繰り返しはあまりにも自然で、多くの人はそれを「社会とはそういうものだ」と受け入れています。
もちろん、それ自体は間違いではありません。
社会は多くの人々の営みによって支えられ、私たちはその恩恵を受けながら暮らしています。
けれど、日常の中にいるだけでは見えにくいものがあります。
それは、私たち一人ひとりの行動を静かに形づくっている「構造」です。
私はそれを、本ではなく、小さな経営の現場で知りました。
当時、十五名ほどの従業員とともに店舗を運営していました。
毎日、売上を確認し、人件費を計算し、仕入れを考え、スタッフの育成に向き合う。
経営とは、理想だけでは続けられません。
どれだけ誠実に仕事をしても、数字が動かなければ事業は続かない。
その現実は、とても静かで、とても重いものでした。
利益を残さなければ、従業員へ給料を支払うことができません。
給料を支払えなければ、お店は続きません。
お店が続かなければ、お客様へサービスを届けることもできません。
一つの判断が、多くの人の暮らしへつながっています。
私は経営者として意思決定をしていました。
けれど同時に、その意思決定そのものが、もっと大きな流れの影響を受けていました。
景気。
消費動向。
制度。
税制。
市場価格。
人件費。
社会全体の空気。
自分の判断だけで経営しているつもりでも、その判断は常に社会という大きな流れの中で行われています。
そのとき、初めて気づきました。
私は経営しているつもりでした。
けれど実際には、私自身もまた、社会という巨大な構造の内側で経営していたのです。
経営者だから自由なのではありません。
会社員だから不自由なのでもありません。
立場が違うだけで、私たちは皆、それぞれ異なる場所から同じ社会構造と関わっています。
そのことが見えた瞬間、自分が「社会を見ている側」ではなく、「社会の中にいる存在」であることを、ようやく実感しました。
経営者もまた、構造の内側にいる
経営者になる前の私は、経営する側には自由があると思っていました。
自分で判断し、自分で決め、自分で未来をつくっていく。
もちろん、その自由は確かにあります。
しかし実際に経営を始めると、別の景色が見えてきました。
自由であることと、構造の外側にいることは同じではありません。
価格は市場の影響を受けます。
人件費は社会全体の流れの中で変化します。
税制も法律も、自分で決められるものではありません。
消費者の価値観も時代によって変わります。
つまり、経営者は構造を動かしているように見えながら、その構造の中で意思決定を続けている存在でもあります。
このことに気づいたとき、「搾取する側」「搾取される側」という単純な二項対立では説明できない現実が見えてきました。
従業員へ給料を支払う。
そのためには利益が必要です。
利益を得るためには売上が必要です。
売上は、お客様が商品やサービスを選んでくださることで生まれます。
その背景には、消費という社会の循環があります。
そして、その循環の背景には、さらに制度や経済があります。
誰か一人が、この構造を動かしているわけではありません。
無数の選択と制度と歴史が重なり合いながら、現在の社会が形づくられています。
出口を探しても、社会の外側には出られなかった
この構造が見え始めたとき、私の中には一つの問いが生まれました。
「では、この仕組みの外側へ行くことはできるのだろうか。」
当時の私は、その答えを探していました。
仕事を変えれば違うのではないか。
もっと小さく生きれば自由になれるのではないか。
反対に、大きな会社をつくれば構造を超えられるのではないか。
さまざまな可能性を考えました。
けれど、考えれば考えるほど、一つの事実が見えてきました。
社会の外側へ出ることは、思っていたほど簡単ではありません。
私たちは食べ物を買います。
住む場所があります。
電気や水道を使います。
税金を納めます。
通信を利用します。
インターネットを通じて情報を受け取り、誰かとつながっています。
つまり、社会と無関係に生きることは、ほとんど現実的ではありません。
だから、出口を探しても見つからなかったのです。
場所を変えても。
職業を変えても。
会社員から経営者になっても。
地方へ移住しても。
前提が変わらなければ、見える景色だけが変わることがあります。
その頃の私は、「構造から逃げる方法」を探していました。
しかし今振り返ると、本当に必要だったのは、逃げることではありませんでした。
構造を理解することだったのです。
それは、大きな違いでした。
「ゲーム」という比喩が伝えたかったこと
私は以前、この社会を「ゲーム」にたとえて表現したことがあります。
その表現は今でも、大きくは間違っていないと思っています。
ただ、現在の私なら、少し違う言葉を選ぶでしょう。
ゲームという言葉は、ともすると「誰かがすべてを設計している」という印象を与えてしまうことがあります。
けれど、社会はそれほど単純ではありません。
制度。
市場。
文化。
教育。
法律。
技術。
歴史。
それぞれが長い時間をかけて積み重なり、現在の社会を形づくっています。
私たちは、その複雑な構造の中で暮らしています。
だから私が伝えたかったのは、「誰かに支配されている」という話ではありません。
私たちは、自分が思っている以上に、構造の影響を受けながら判断しているということです。
どのような働き方を選ぶのか。
何を成功と呼ぶのか。
どれくらいの収入が必要だと思うのか。
どんな人生が幸せだと感じるのか。
それらはすべて、自分自身が自由に選んでいるようでいて、社会の価値観から少なからず影響を受けています。
もちろん、それ自体は自然なことです。
人は社会的な存在だからです。
問題は影響を受けることではありません。
影響を受けていることに気づかないまま、それだけが唯一の現実だと思い込んでしまうことです。
教育は「問い」を奪うために存在するのだろうか
このようなことを書くと、ときどき「教育を否定しているのですか」と尋ねられることがあります。
そうではありません。
学校教育は、多くの人が社会の中で安心して生きていくための知識や技能を育てています。
読み書き。
計算。
歴史。
科学。
他者との協調。
それらは社会にとって、とても大切なものです。
しかし一方で、教育には別の役割もあります。
社会へ適応するための力を育てることです。
決められた時間に行動すること。
一定の基準で評価されること。
集団の中で役割を果たすこと。
それらは現代社会を支える重要な力でもあります。
だから私は、それを善悪で語りたいわけではありません。
ただ、一つだけ感じることがあります。
それは、「問いを持つ力」は、比較的自分自身で育てていかなければならないということです。
このルールは、なぜ存在しているのだろう。
この価値観は、いつ生まれたのだろう。
本当に、これだけが正解なのだろうか。
そのような問いは、決められた答えの中からは生まれません。
だから私は、社会へ適応する力と同じくらい、「社会を観察する力」も大切なのではないかと思っています。
社会構造を知ったあと、人は何を人生の中心に置くのか
社会の構造が見え始めると、人はしばらく迷います。
私自身もそうでした。
構造を知れば知るほど、それまで当たり前だと思っていたものが揺らぎ始めます。
働くこと。
お金を稼ぐこと。
会社を大きくすること。
社会的な成功を目指すこと。
そのどれもが意味を失うわけではありません。
しかし、「それだけが人生の中心なのだろうか」という問いが、静かに立ち上がります。
構造が見えたあと、人はさまざまな選択をします。
そのルールを深く理解し、より上手に活用していこうとする人もいます。
社会の仕組みを学び、事業を拡大し、大きな成果を生み出していく道です。
一方で、競争から距離を置き、小さく暮らしながら社会との接続を最小限にして生きようとする人もいます。
どちらにも、それぞれの誠実さがあります。
私自身は、そのどちらでもありませんでした。
現在の私が大切にしているのは、社会の中で生きながら、社会を人生の中心には置かないという感覚です。
働くことは必要です。
お金も必要です。
制度とも関わります。
社会という構造の恩恵を受けながら生きていることも事実です。
だから私は、資本主義を否定したいわけではありません。
社会から離れて生きようとも思っていません。
ただ、その構造だけが世界のすべてではないと思うようになりました。
社会は、人間が生きるための大切な仕組みです。
しかし、人間そのものではありません。
仕事は人生の一部です。
けれど、人生そのものではありません。
収入は暮らしを支えます。
しかし、人の価値そのものを決めるものではありません。
こうしたことは、頭では理解していても、社会の中で暮らしていると、いつの間にか忘れてしまいます。
だからこそ、ときどき立ち止まり、自分自身へ問い直す時間が必要なのだと思います。
私は、何を豊かさと呼びたいのだろう。
私は、何を成功と呼びたいのだろう。
私は、本当はどのような人生を生きたいのだろう。
その答えは、社会が決めるものではありません。
構造を知ったあとに、自分自身で選び直していくものなのだと思います。
構造を知ることは、社会を否定することではない
Structure & Society の記事を書いていると、ときどき誤解されることがあります。
社会を批判したいのですか。
資本主義を否定したいのですか。
制度を壊したいのですか。
私の考えは、違います。
社会は、多くの人々が長い年月をかけて築いてきた営みです。
そこには矛盾もあります。
不合理もあります。
けれど同時に、多くの命を支え、暮らしを成り立たせている側面もあります。
だから、善悪だけで語ることはできません。
私が興味を持っているのは、「正しい社会」を探すことではありません。
社会は、どのような前提で成り立っているのか。
その前提は、私たちの認識にどのような影響を与えているのか。
それを静かに観察することです。
構造を知ることは、構造と戦うことではありません。
構造に飲み込まれないために、一歩引いて眺められるようになることです。
そして、その視点を持ったうえで、もう一度社会の中へ戻っていくこと。
私は、そのような在り方に惹かれています。
おわりに
小さな経営の現場で見えたものは、経営のノウハウではありませんでした。
人を動かす方法でもありません。
社会という巨大な構造の中で、私自身もまた、その一部として生きていたという、ごく静かな事実でした。
その気づきは、一時期の私を戸惑わせました。
出口を探し続けたこともあります。
けれど今は、少し違う景色が見えています。
社会の構造を知ることと、社会に支配されることは同じではありません。
構造を理解したからこそ、自分自身が何を人生の中心に置いて生きたいのかを、あらためて選び直すことができます。
働くことも、お金を稼ぐことも、社会と関わることも、これから先も必要でしょう。
しかし、そのどれもが人生そのものではありません。
私たちは社会の中で生きています。
けれど、人生の中心まで社会へ預ける必要はありません。
構造を知るとは、外側の世界を疑うことではなく、自分自身の見え方を少しずつ自由にしていくことなのだと、今の私は考えています。