Quiet Signals

日常の観察・問いの記録

「正解」という重荷を、玄関に置いたまま歩き出す

「正解があります」

そう言われると、少し安心します。

反対に、「正解はありません」と言われると、どこか落ち着かなくなります。

私たちは、いつから「正解」があることを前提に生きるようになったのでしょうか。

朝、玄関で靴を履くとき、ときどき肩に力が入っていることがあります。

今日も間違えないように。

失敗しないように。

期待に応えられるように。

そんな思いを抱えたまま、一日が始まります。

けれど、その重さは、本当に今日という一日に必要なものなのでしょうか。

道を歩いていると、予定していなかった景色に出会うことがあります。

風の向きが変わる。

光が木々の隙間から差し込む。

気になった道へ、少しだけ寄り道をしてみる。

そうした時間は、「正解」を探しているときには、あまり訪れません。

正解は、安心を与えてくれます。

その一方で、まだ知らないものと出会う余白を、小さくしてしまうこともあります。

だから、ときどき思います。

玄関に置いていきたいのは、「正解」そのものではないのかもしれません。

正解がなければ歩き出せない。

そう信じている自分のほうなのかもしれません。

答えを持たずに歩き始めた日ほど、思いがけない景色に出会うことがあります。

その景色は、正解を探していたときには見えていなかった世界でした。

私たちは、本当に正解を求めているのでしょうか。

それとも、「正解がなければ不安になる」という、自分自身の認識に従っているだけなのでしょうか。

そんなことを考えながら、今日も玄関の扉を開けます。

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