
待つ、という時間の粒子
何かが形になるのを待っているとき。
時間はただの「長さ」として過ぎ去るのではなく、もっと微細な「粒」の集まりとして、私の周りを漂い始めるように感じることがあります。
たとえば、冬の終わりの、柔らかな光が差し込む昼下がりの窓辺。
ふとした瞬間に、光の筋の中に小さな埃がキラキラと踊っているのが見えることがあります。
ふだんは透明で、何もないと思っているその空間に、実はあんなにも無数の、名もなき粒子たちが絶え間なく躍動している。
「待つ」という時間も、本来はそれと同じくらい、濃密なものなのかもしれません。
何も起きていない。
何も進んでいない。
焦燥感に駆られているとき、その「空白」はただの虚無に見えてしまいます。
けれど、その目に見えない空白の中にも、実は光の中の埃のように、捉えきれない変化の兆しがたゆたっている。
自分という存在の境界線が、その微細な粒子と触れ合い、少しずつ馴染んでいく。
そんな静かなプロセスが、そこには確かに存在しています。
あるいは、深い海の底で、音もなく降り積もる目に見えない雪のことを思います。
「マリンスノー」と呼ばれるその一粒ひとつぶは、はるか遠い海の上層で生まれた、生命の欠片たち。
それが長い時間をかけて、ゆっくりと、ゆっくりと、深海へと沈んでいきます。
それはあまりに微かで、海の底に座っている者からは、それが積もっていることさえ気づかないほどかもしれません。
けれど、その目に見えない雪が、暗闇に生きる命を育む唯一の土壌となっていく。
私たちの思索も、それと同じではないでしょうか。
今日感じた、答えの出ない違和感。
昨日見上げた、言葉にならない空の色。
そんな、一見すると価値のない「欠片」たちが、待つという時間のなかで一粒ずつ、確実に内側の深い場所へと降り積もっています。
早く答えを出そうと焦るとき、私たちはその「待つ」という時間を、不毛な余白として切り捨ててしまいます。
けれど、焦りの力をふっと抜いて、その粒子のなかに身を委ねてみると、そこには不思議な安堵があることに気づくのです。
お湯が沸き、蒸気が立ち上るのをじっと見守る。
読み終えた本の余韻が消えるのを惜しみ、すぐには閉じない。
何者でもない、答えの出ないままの自分を、そのままにしておく。
そんな「ただ、待つ」という静止のなかで、私たちの心は、外側からの力ではなく、自らの重みによって新しい形へと整えられていくのかもしれません。
時間は、私を追い越して消えていくものではなく、
私の足元に、優しく降り積もっていくもの。
そう思えると、この「何も起きていない時間」さえも、愛おしい蓄積のように感じられます。
その一粒一粒の重なりを、今はただ、黙って、大切に受け取っていたいと思うのです。