
光が溶ける、窓辺の余白
何もしなくてよい時間ができると、不思議なことがあります。
何かを始めたくなります。
スマートフォンを手に取る。
明日の予定を確認する。
まだ起きていないことを考える。
空いた時間を見つけると、私たちはすぐに何かで埋めようとします。
なぜ、何も起きていない時間は、これほど落ち着かないのでしょうか。
ある午後、窓辺の椅子に腰掛けていました。
床には、傾き始めた光が長く伸びていました。
その光の中を、小さな塵がゆっくりと漂っています。
何かをするために座ったわけではありません。
考えをまとめようとしていたわけでもありません。
ただ、光が少しずつ場所を変えていくのを眺めていました。
しばらくすると、何もしないことへの落ち着かなさが、少しずつ見えてきました。
何かを生み出していないと、不安になる。
時間を有効に使っていないと、取り残されたように感じる。
目的のない時間を過ごしていると、自分まで意味のない存在になったような気がする。
私たちは、空白そのものを恐れているのではないのかもしれません。
空白の中で、役割を持たない自分が現れることを恐れているのでしょうか。
仕事をしている自分。
誰かの役に立っている自分。
何かを考え、作り、進めている自分。
それらが一度途切れたあとに、何が残るのか。
窓辺の光は、その問いに答えることなく、床の上を静かに移動していました。
塵は何かを生み出そうともせず、光の中を漂っています。
その光景を見ているうちに、何もしない時間が、自分を空白にするのではないことに気づきました。
むしろ、日々どれほど多くの役割や目的で、自分を埋め続けていたのかが見えてきます。
余白は、休むためだけにあるのではないのでしょう。
何かをしている自分の奥に、何もしなくても存在している自分がいることを、思い出すためにあるのかもしれません。
光が窓辺から消える頃、部屋は少し暗くなっていました。
けれど、その静かな空白の中には、何かが足りないという感覚は残っていませんでした。