Contemplation

思索のじかん

『PERFECT DAYS』 木漏れ日のなかに宿る「今」という永遠

ヴィム・ヴェンダース監督の映画『PERFECT DAYS』を観終えたあと、私の心に深く残ったのは、物語の筋書きではなく、主人公・平山が毎日見上げている、あの「木漏れ日」の揺らぎでした。

彼は、東京の公共トイレの清掃員として、判で押したような規則正しい毎日を送っています。

朝、近所の誰かが竹箒で道を掃く音で目を覚まし、苗木に水をやり、作業着に袖を通す。

自動販売機で缶コーヒーを買い、古い軽ワゴンで仕事に向かい、カセットテープから流れる音楽に身を委ねる。

そんな、端から見れば淡々とした、あるいは単調とも言える日々の繰り返し。

けれど、彼の瞳が捉えている世界は、「昨日と同じ今日」ではありません。

平山は、昼休憩のベンチで、あるいは神社の境内で、ふと空を見上げます。

そこには、風に揺れる葉の間から差し込む、その瞬間にしか存在しない「光の模様」がある。

彼はそれを一台のコンパクトカメラで静かに切り取ります。

現像された写真は、一見どれも似たような景色に見えるかもしれません。

しかし、彼にとっては、どの光も二度と繰り返されることのない、一期一会の「今」なのです。

 

「今度は今度、今は今」

劇中で交わされるこの言葉は、この映画の、そして私たちの生の本質を突いています。

私たちはつい、未来の不安に意識を飛ばしたり、過去の後悔に心を囚われたりして、「今」という手触りを疎かにしてしまいます。

けれど、平山が生きる世界には、余計な意味づけも、外側からの評価も入り込む隙がありません。

彼が毎日、丁寧にトイレを磨き上げること。

銭湯で湯船に浸かり、小さく息を吐くこと。

古本屋で見つけた一冊を、豆電球の光の下で読み耽ること。

それらは、社会的な「正解」や「成功」とは無縁の行為かもしれません。

けれど、その一つひとつの所作に深く沈潜することで、彼の人生は、誰にも侵されることのない聖域のような静寂を纏っています。

木漏れ日の揺らぎは、実態のない光と影のダンスです。

それを捕まえようと手を伸ばしても、指の間をすり抜けていってしまう。

人生もまた、そのようなものではないでしょうか。

意味や理由を求めて捕まえようとするほど、その本質的な輝きは失われていく。

ただ、そこに在る光を、あるがままに受け入れること。

 

物語の最後、車を走らせる平山の顔に、朝の光が差し込みます。

彼の瞳からは涙が溢れ、それでいて口元には微かな、けれど確かな微笑みが浮かんでいました。

あれは、どのような表情だったのでしょうか。

それは、悲しみでも喜びでもなく、そのどちらもを内包した「生」そのものの発露であったように思えます。

昨日までがどうであれ、明日がどうなろうとも、今、この瞬間を生きているという圧倒的な実感が、彼を震わせていた。

言葉にならない感情が、そのまま光に溶けていく。

平山が見せたあの表情は、人生のすべてをただ受け入れ、深く、静かに息を吐く、魂の呼吸そのものであった気がしてなりません。

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