Quiet Signals

日常の観察・問いの記録

『もののけ姫』から受け取る、静かな気づき

宮崎駿監督の『もののけ姫』を観るたびに、不思議な感覚になります。

物語を理解したというより、自分の見方を静かに揺さぶられたような感覚です。

初めて観た頃は、誰が正しくて、誰が間違っているのかを探していました。

森を守る者たち。

鉄を打ち、暮らしを築く人々。

そのどちらかに心を重ねながら物語を追っていたように思います。

けれど、何度か観るうちに、その見方では最後までたどり着けないことに気づきました。

森には森の理由があります。

タタラ場にはタタラ場の理由があります。

サンにはサンの痛みがあり、エボシにはエボシの責任があります。

誰もが、自分の立っている場所から世界を見ています。

だから、この物語には、簡単に裁ける人がほとんどいません。

私はそのことが、とても印象に残っています。

人は、誰かを「正しい」「間違っている」と整理できると安心します。

世界が理解しやすくなるからです。

けれど、『もののけ姫』は、その安心を何度も崩してきます。

一人を理解したと思うと、別の景色が現れる。

一つの出来事を理解したと思うと、その裏側にもう一つの事情が見えてくる。

物語は、私たちが急いで結論へ向かおうとするたびに、「まだ見えていないものがある」と静かに語りかけているようでした。

印象的なのは、自然と人間が対立していることではありません。

どちらも、生きようとしていることです。

その当たり前の事実が、物語の中では何度も描かれます。

生きることは、ときに誰かを傷つけます。

守ることは、別の何かを失わせます。

だから、この映画は善悪を教える物語ではなく、「生きる」という営みの複雑さを見つめる物語なのかもしれません。

そして、私はアシタカという人物を見ているうちに、もう一つ気づいたことがあります。

「曇りなき眼で見定める」

この言葉は、完成された境地を表しているのではないように思います。

むしろ、自分の判断や感情に飲み込まれそうになりながら、それでも見続けようとする姿勢なのではないでしょうか。

人は、一瞬で評価します。

人を見ても。

出来事を見ても。

社会を見ても。

その働きがあるからこそ、私たちは世界を理解しながら生きていけます。

けれど、ときには、その評価を少しだけ脇へ置いてみる。

そうすると、それまで見えていなかった事情や、痛みや、願いが静かに姿を現すことがあります。

『もののけ姫』を観終えたあと、私が考えるのは、「誰が正しかったのか」ではありません。

「私は、何をそんなに急いで判断しようとしていたのだろう」

その問いは、映画の中ではなく、いつも自分の認識へと静かに戻ってきます。

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