Quiet Signals

日常の観察・問いの記録

「わからない」という豊かさに身を置く

「わかりません」

この一言を口にすると、少し落ち着かなくなることがあります。

理由を知りたくなる。

意味を探したくなる。

何か名前をつけて、安心したくなる。

私たちは、いつの頃から「わかること」のほうを大切にするようになったのでしょう。

朝、目が覚めたときの、理由のわからない重たさ。

夕暮れの街角で、不意に胸へ込み上げてくる懐かしさ。

誰かと出会った瞬間に感じる、不思議な親しみ。

そんな感覚に出会うたび、私たちは「きっと疲れているからだ」「昔を思い出したからだ」と理由を探し始めます。

その瞬間、「わからなかったもの」は、「わかったもの」へ変わります。

けれど、本当にそうだったのでしょうか。

私たちは、出来事を理解したのでしょうか。

それとも、安心するための言葉を見つけただけなのでしょうか。

意味を与えることは、人間にとって大切な力です。

だからこそ、その力は、ときどき「まだわからないもの」を早く閉じてしまうこともあります。

答えがあることは安心です。

一方で、答えを急がなかったからこそ見えてくるものもあります。

言葉にならない感覚。

説明できない静けさ。

理由はわからないのに、ただ心が動く瞬間。

それらは、「理解できないもの」ではなく、「まだ閉じていないもの」なのかもしれません。

私たちは、「わかる」ことで世界を理解しています。

けれど、「わからない」ことでしか出会えない世界も、本当はあるのではないでしょうか。

そう思う日があります。

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