
「わからない」という豊かさに身を置く
いつからか、すべてのことに「理由」や「正解」を求めるようになりました。
目の前で起きている出来事の意味をすぐに解釈し、自分の感情に名前をつけ、納得という名の整理棚に収めようとしてしまう。
そうしなければ、どこか落ち着かないような、世界から取り残されるような不安に駆られるからです。
朝、目が覚めたときの得も言われぬ重たさ。
あるいは、夕暮れの街角でふいに胸を突く、懐かしさとも寂しさともつかない震え。
そんな名付けようのない感覚に直面したとき、私たちはつい「これは昨日の疲れのせいだ」とか「季節の変わり目だからだ」といった、もっともらしい理由を探してしまいます。
そうして言葉のラベルを貼ることで、私たちは「わかった」つもりになり、その正体不明のエネルギーを飼い慣らそうとするのです。
けれど、本当の豊かさは、その「わかる」という境界線のすぐ外側に広がっているのではないでしょうか。
「わからない」ということは、可能性が閉じられていないということです。
何者かによって定義された言葉の中に自分を押し込めるのをやめ、答えの出ない問いを、問いのまま、そっと胸の中に抱いておく。
それは、自分という存在を、論理という狭い檻から解放してあげる行為でもあります。
効率や生産性が重視される外側の世界では、「わからない」ことは停滞や未熟さと見なされるかもしれません。
しかし、私たちの内なる宇宙においては、その「わからなさ」という余白こそが、新しい光を呼び込むための神聖な隙間となります。
意味を追いかけるのをやめて、ただ、その瞬間に立ち上がっている「質感」に身を委ねてみる。
「なぜだかわからないけれど、今はこれが心地よい」
「理由は説明できないけれど、この静寂が自分を癒してくれている」
その曖昧な感覚のなかに留まることは、一見すると危ういように思えますが、実はもっとも深い安堵へと通じています。
自分の外側に正解を求めず、自分の内側に起きている「ゆらぎ」をそのまま許容すること。
そこには、誰にも侵されることのない、自立した静かさが宿っています。
正解のない霧の中に漂うとき、私たちの魂は、もっとも深く、静かに息を吹き返します。
わからないままでいい。
その豊かさの中に身を浸すとき、世界は解釈されるべき対象ではなく、ただ感じ、味わうべき神秘として、再び私たちの前に姿を現してくれるのです。