Contemplation

思索のじかん

「階段」という名の、宙吊りの時間

一階から二階へ。

あるいは、地上から地下へ。

階段という場所は、常に「どこか」へ向かうための通過点として、私たちの足元に置かれています。

一段、また一段と足を運ぶ、その数秒間。

私たちは、出発地という「過去」をすでに離れ、目的地という「未来」にはまだ届いていない、奇妙な空白の中にいます。

そこは、過去でも未来でもない、ほんの一瞬だけ開く「境目」のような場所。

ここは、どこでもない場所。

何者でもない時間。

「さっさと次へ行きたい」という、人生の焦燥感がふと足元に凝縮する瞬間があります。

早くあちら側(正解)へ辿り着きたい。

この中途半端な「宙吊り」を一秒でも早く終わらせたいと願うとき、階段はただのもどかしい障害物になります。

けれど同時に、足を上げるたびに視線の高さが変わり、重力から一瞬だけ解放される、あのふわりとした浮遊感もまた、たしかにそこに在るのです。

焦りと、軽やかさ。

その二つの気配が、一段ごとの足取りの中で、静かに混ざり合っていきます。

目的のフロアへ辿り着くことだけを唯一の価値とするならば、階段での歩みは、ただの「移動」という機能に還元されてしまいます。

効率を求め、ショートカットを望む心。

その一方で、手すりの冷たさや、靴音が響く静寂に、ふと意識が持っていかれる空白。

もし人生が、こうした「途上」の連続でできているのだとしたら。

そのもどかしさも、浮遊感も、すべてを等しく引き受けてみる。

踊り場の静寂の中で、ふと足を止める。

目的地は、まだ見えません。

けれど、ここが「どちらでもない場所」だからこそ、私は今、何者でもない自分として、ただ呼吸をしています。

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