Contemplation

思索のじかん

人間の外側へ 「生」を自分のものにしないという自由

私たちはいつから、自分の人生を自分だけでコントロールできると思うようになったのでしょうか。

健康でいなければならない、社会の役に立たなければならない、正解を選び続けなければならない。

そんな「人間がつくった、人間のためのルール」に一所懸命になりすぎて、私たちは自分という生命を、あまりにも狭い檻に閉じ込めてしまっているようです。

養老孟司さんが語る「人間のことに一所懸命にならない」という言葉。

それは、世俗を捨てることではなく、むしろこの世界を動かしている「人間以外の圧倒的な摂理」への、深い信頼と降参のように聞こえます。

「医者の言うことを聞かない」という姿勢も、単なる頑固さではありません。

数値やデータという記号に命を当てはめ、管理される側に回るのではなく、ただ普通に生活し、自分の身体という「自然」に任せる。

薬で無理に血糖値を下げ、脳の冴えを失うくらいなら、不揃いな数値のままで悠々と歩くことを選ぶ。

それは、自らの「生」の主権をシステムに明け渡さないという、静かな、けれど毅然とした自立の姿です。

養老さんの視線は、常に「人間」の枠をはみ出し、言葉を持たない虫たちの世界や、かつてこの地を歩いた西行や鴨長明といった、孤独を友とした先人たちへと向けられています。

孤独死を恐れる同調圧力や、他者の視線に縛られる窮屈さ。

そうした「人間関係という病」から自由でいるためには、他人に一所懸命にならないだけでなく、自分自身にも一所懸命にならないことが必要なのかもしれません。

「患者に一所懸命になればなるほど、死なれるとこたえる」

解剖学という、すでに「死」を迎えた身体と向き合う道を選んだ理由に、養老さんはそう触れています。

人の生き死にという、どうしようもない運命に心を砕きすぎることは、相手を縛り、自分を縛ることでもある。

負担になることは避け、面倒なことは引き受けつつも深追いせず、ただそこにあるがままの事象として受け流していく。

私たちは、あまりにも「意味」を求めすぎています。

けれど、愛猫の死や、親しい友の旅立ち、そして自分自身の老いさえも、それは単なる「自然現象」であり、寂しがっても仕方のないことです。

その「仕方のなさ」を受け入れたとき、人は初めて、戦中戦後の激動を生き抜いた養老さんが辿り着いた、どこまでも軽やかで、何ものにも縛られない「空」のような自由を手にするのでしょう。

脳がつくり出した「社会」という幻想から一歩外へ出て、ただの「生き物」としてそこに座ってみる。

タバコの煙をなんとなくくゆらせ、頼まれ仕事を面倒がりながらもこなし、明日には変わってしまうかもしれない「正しさ」には深入りしない。

「人間」であることを少しだけ休んでみる。

その余白にこそ、私たちの魂が本当の意味で「呼吸」できる、広大な沈黙の風景が広がっています。

―― 養老孟司氏の対談記事(幻冬舎plus)に触れて

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