Quiet Signals

思索と兆し・余白の記録

人間の外側へ 「生」を自分のものにしないという自由

私たちはいつから、自分の人生を自分だけでコントロールできると思うようになったのでしょうか。

健康でいなければならない、社会の役に立たなければならない。そんな「人間がつくり出したルール」に一所懸命になりすぎて、私たちは自分という生命を、あまりにも狭い檻の中に閉じ込めてしまっているようです。

養老孟司さんの語る「人間のことに一所懸命にならない」という言葉。それは世俗を捨てることではなく、むしろこの世界を動かしている摂理への、深い信頼と降参のように聞こえます。

数値やデータという記号に命を当てはめ、管理される側に回るのではなく、ただ普通に生活し、自分の身体という「自然」に任せること。無理に数値を制御し、脳の冴えを失うくらいなら、不揃いな状態のままで悠々と歩く道を選ぶ。それは、自らの「生」の主導権をシステムに明け渡さないという、静かな自立の姿です。

養老さんの視線は、常に「人間」の枠をはみ出し、言葉を持たない虫たちの世界や、孤独を友とした先人たちへと向けられています。他者の視線に縛られる窮屈さから自由でいるためには、他人に一所懸命にならないだけでなく、自分自身にも一所懸命にならないことが必要なのかもしれません。

人の生き死にという、どうしようもない運命に心を砕きすぎることは、相手を縛り、自分をも縛ることになる。負担になることは避け、ただそこにあるがままの事象として受け流していく。

私たちは、あまりにも「意味」を求めすぎています。けれど、親しい存在の死や、自分自身の老いさえも、それは一つの「自然現象」であり、寂しがっても仕方のないこと。その「仕方のなさ」を受け入れたとき、人は初めて、何ものにも縛られない軽やかな自由を手にできるのでしょう。

脳がつくり出した「社会」という幻想から一歩外へ出て、ただの「生き物」としてそこに座ってみる。明日には変わってしまうかもしれない「正しさ」には深入りせず、「人間」であることを少しだけ休んでみる。

その余白にこそ、私たちの魂が本当の意味で「呼吸」できる、広大な沈黙の風景が広がっている気がするのです。

―― 養老孟司氏の対談記事(幻冬舎plus)に触れて

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