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日常の観察・問いの記録

人間の外側へ|「生」を自分のものにしないという自由

私たちは、自分の人生を自分で管理できるものだと思っています。

健康を維持すること。

成果を積み重ねること。

社会の役に立つこと。

そうした営みは大切です。けれど、いつの間にか「生きること」そのものまで、自分が完全に管理すべき対象のように考えるようになってはいないでしょうか。

養老孟司さんの「人間のことに一所懸命にならない」という言葉に触れたとき、その背景には、人間という枠組みを少し離れて世界を見る視線があるように感じました。

人間は、自分たちが作った制度や価値観の中で生きています。

健康診断の数値。

社会的な役割。

生産性。

評価。

それらは社会を営むためには必要なものです。

けれど、それだけが生命ではありません。

山を歩けば、虫は評価されることなく生きています。

木々は、誰かに認められるために芽吹くわけではありません。

自然は、自らを証明しようとしません。

その景色の中に身を置くと、「人間であること」と「生き物であること」は、少し違うことのように思えてきます。

私たちは、人間として生きることに多くの時間を使っています。

けれど、ときどき、生き物として世界を眺めてみると、別の風景が見えてきます。

老いること。

衰えること。

別れること。

それらは人間にとって大きな出来事です。

しかし自然の側から眺めれば、それもまた生命の流れの一部として静かに起きています。

その視点に立つと、「どうにかしなければ」という力が少しだけほどけていきます。

すべてを自分の力で支えようとしなくてもいい。

すべてを理解しようとしなくてもいい。

生を自分だけの所有物として抱え込まなくなったとき、人は少しだけ、人間という枠組みの外側で呼吸できるのかもしれません。

人間として考えることをやめるのではありません。

ただ、ときどき人間という立場を降りてみる。

その小さな移動によって、世界は思っているよりも広く、人間という存在もまた、自然の大きな流れの中にあることを静かに思い出すのです。

―― 養老孟司氏の対談記事(幻冬舎plus)に触れて

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