
「階段」という名の、宙吊りの時間
階段という場所が、私は好きです。
そこは、一階でもなければ、二階でもありません。
過去を離れ、未来にもまだ届いていない。その、どちらにも属さない場所です。
私たちは人生の多くを、「到着」で語ろうとします。
目標を達成したとき。
何者かになれたとき。
答えに辿り着いたとき。
けれど、本当にそうした瞬間だけで人生はできているのでしょうか。
実際には、一段一段を上っている時間のほうが、はるかに長いのかもしれません。
それでも私たちは、「途中」に落ち着くことができません。
早く着きたい。
早く終わらせたい。
早く答えが欲しい。
そんな焦りは、階段という場所で、不思議なほど輪郭を持ちます。
けれど、足を止めてみると気づくことがあります。
手すりの冷たさ。
足裏に伝わる段差の硬さ。
吹き抜けを抜けていく空気。
階段は、決して空白ではありません。
どこにも属していないからこそ、その場所だけが持つ静けさがあります。
思えば、人もまた、何度も階段を生きています。
子どもでもなく、大人でもない頃。
始まりでもなく、終わりでもない時間。
昨日の自分ではなく、まだ明日の自分にもなっていない、その狭間。
私たちは、そうした境界を何度も通り抜けながら、この世界を歩いています。
もしかすると、魂もまた、こうした「どちらでもない時間」の中で、静かに形を変えているのかもしれません。
目的地に立つ瞬間だけが人生なのではありません。
一段を踏みしめる、その宙吊りの時間にもまた、私たちは確かに生きているのです。