Inner Growth

内面の探究・人間存在の考察

人間の認識は誰が研究しているのか|私たちは「認識」をどこで学ぶのか

私たちは人生の中で、多くのことを学びます。国語、数学、歴史、科学、経済、法律、医学。社会の中で生きていくための知識や技術については、学校教育をはじめ、さまざまな場所で学ぶ機会があります。

けれど、その一方で、不思議に思うことがあります。

私たちは毎日、世界を見ています。人を見ています。自分自身を見ています。そして、見たものを受け取り、意味づけ、判断しながら生きています。つまり私たちは、絶えず「認識」を通して人生を経験しています。

同じ言葉を聞いても、傷つく人もいれば、ほとんど気にならない人もいます。同じ失敗を経験しても、自分には価値がないと受け取る人もいれば、ひとつの経験として次へ進む人もいます。

私たちは、外側で起きた出来事を、そのまま同じように受け取っているわけではありません。そこには、記憶や経験、信念、期待、感情、身体の状態、これまで身につけてきた価値観など、さまざまなものが関わっています。

人生は、「何が起きたか」だけによって経験されているわけではありません。それを自分がどのように受け取り、どのような意味を与えているのかによって、同じ出来事であっても経験される世界は変わります。

では、これほど私たちの人生に深く関わっている「認識」について、私たちはどこで学ぶのでしょうか。そして、人間が世界をどのように受け取り、理解し、自分自身や他者をどのように見ているのかという問題は、いったい誰が研究しているのでしょうか。

 

私たちは認識そのものを学ぶ機会が少ない

学校では、読み書きや計算、歴史、理科、外国語など、さまざまなことを学びます。しかし、多くの人にとって、「自分は世界をどのように見ているのか」を体系的に学ぶ機会は、それほど多くありません。

なぜ同じ出来事でも、人によって受け取り方が違うのか。なぜ人は、自分の考えを正しいと思うのか。なぜ過去の経験によって、現在の出来事の見え方まで変わるのか。

なぜ他者や社会から受け取った価値観を、自分自身の価値観として生きることがあるのか。なぜ自分について抱いているイメージが、その後の判断や行動に影響するのか。

こうした問いを調べていくと、「認識」という名前の一つの学問が存在しているわけではなく、いくつもの学問領域が、それぞれ異なる位置から人間の認識に関わる問題を扱っていることが見えてきます。

心理学は、知覚や記憶、思考、判断などを研究しています。認知科学では、心理学だけでなく、神経科学、言語学、哲学、コンピュータ科学などとも関わりながら、人間の認知について研究されています。

哲学では、「知るとはどういうことなのか」「私たちは何を知ることができるのか」といった問題が、長い時間をかけて考えられてきました。

さらに、人間の認識は他者や文化、社会とも関係しています。そのため、社会心理学や文化心理学、社会学、人類学などにもつながっていきます。

調べるほど、「認識」という一つの言葉の周囲に、いくつもの異なる研究領域が存在していることがわかります。

 

心理学は認識をどのように研究しているのか

人間の認識に深く関わっている学問のひとつが、心理学です。

なかでも認知心理学では、知覚、注意、記憶、思考、言語、判断、問題解決など、人間が情報をどのように受け取り、処理し、理解しているのかが研究されています。

私たちは、目の前にある情報をすべて同じように受け取っているわけではありません。何に注意を向けるのかによって、気づくものは変わります。過去の記憶や期待によって、出来事の受け取り方が変わることもあります。認知心理学では、このような心の働きを、実験や観察などを通して研究してきました。

さらに社会心理学では、他者や集団、社会的な状況の中で、人間の判断や行動、自己認識がどのように変化するのかが研究されています。

私たちは、一人きりで世界を見ているわけではありません。他者からどう見られていると思うのか。自分がどの集団に属しているのか。周囲の人が何を当然だと思っているのか。そうした社会的な条件も、人間の認識や判断と関係しています。

また文化心理学では、文化と人間の心理過程がどのように関係しているのかが研究されています。自己の捉え方や注意、知覚、判断などについても、文化との関係が調べられてきました。

こうして見ていくと、私たちが「自分の考え」だと思っているものも、自分の内側だけで完結しているとは限らないことが見えてきます。

 

認知科学や神経科学は何を見ているのか

認識について調べていくと、心理学だけでなく「認知科学」という領域にも出会います。

認知科学は、一つの学問だけで成り立っているものではありません。心理学、神経科学、言語学、哲学、コンピュータ科学など、複数の領域が関わりながら、人間が知覚し、考え、学び、理解する仕組みを研究しています。

その中でも、脳や神経系の働きを研究する神経科学は、認識を考えるうえで重要な領域のひとつです。私たちが何かを見るとき、記憶するとき、判断するとき、感情を経験するとき、脳ではさまざまな活動が起きています。

脳画像技術や電気生理学などの発展によって、知覚や注意、記憶、意思決定、意識状態と脳活動との関係について、多くの研究が積み重ねられてきました。

ただし、人間がどのように情報を処理し、記憶し、判断するのかを調べることと、「私がいま、この世界を経験している」という主観的な経験そのものを説明することは、まったく同じ問題ではありません。

赤を見ること。痛みを感じること。悲しむこと。誰かを愛すること。こうした経験と脳活動との関係を調べることはできます。しかし、なぜそれが「このように感じられる経験」として存在しているのかという問いについては、現在もさまざまな議論があります。

意識研究では、意識を説明するための複数の理論が提案され、主観的な経験をどのように捉え、測定するのかという方法についても研究が続けられています。

脳と私たちの経験が深く関係していることと、「意識とは何か」という問いに最終的な答えが出ていることは、同じではありません。

 

哲学は「知ること」を問い続けてきた

人間の認識について、非常に長い時間をかけて考えてきた領域が哲学です。

私たちは何を知ることができるのか。「知っている」とは、どういうことなのか。自分が正しいと思っていることを、なぜ正しいと言えるのか。自分が見ている世界と、世界そのものは同じなのか。

こうした問いは、哲学の歴史の中で繰り返し扱われてきました。

とくに認識論では、知識とは何か、信念がどのような根拠によって正当化されるのか、私たちは何を知ることができ、そこにはどのような限界があるのかといった問題が研究されています。

ここで扱われているのは、単に「人間がどのような心理状態になるか」という問題ではありません。そもそも私たちは、何をもって「知っている」と言えるのか。自分には確かにそう見えているということと、それが本当にそうであるということは同じなのか。認識について考えていくと、このような問いにも行き着きます。

人間は、自分が見ているものをどこまで知ることができるのか。そして、自分が「正しい」と思っている認識を、何によって確かめることができるのか。哲学は、この問題に長く向き合ってきました。

 

社会や文化も、認識から切り離すことはできない

さらに認識について見ていくと、それが一人の人間の頭の中だけで作られているものではないことも見えてきます。

私たちは身体を通して世界を経験しています。そして、生まれたときから家庭、言語、文化、教育、制度、社会の中で生きています。

「普通とは何か」「成功とは何か」「何に価値があるのか」「自分はどのような人間なのか」。こうした認識は、何もない場所から一人で作られるわけではありません。

心理学では、文化と注意、知覚、判断、自己認識などとの関係が研究されています。また社会学でも、人間が物事をどのように分類し、意味づけ、理解するのかと、文化や社会との関係が研究されてきました。

私たちは言葉を覚え、家族や周囲の人々と関わり、教育を受け、社会の中で生活していく過程で、さまざまな考え方や価値判断の基準を身につけていきます。

外側に存在しているものは、経験を通して私たちの内側へ入ってきます。そして、それがあまりにも自然になると、自分がどこからその考えを持つようになったのかさえ見えなくなることがあります。

ここで、社会を知ることと、自分自身を知ることがつながってきます。

社会構造を見ることは、人間の外側だけを見ることではありません。その社会の中で生きることによって、人間の内側にどのような認識や自己像が形成されているのかを見ることにもつながっているのです。

 

宗教や霊的探究も、人間の認識を見つめてきた

認識という問題は、近代的な学問だけで扱われてきたものではありません。

仏教や禅、ヨーガ、瞑想をはじめ、さまざまな宗教的・霊的伝統でも、人間が自分や世界をどのように経験しているのかは、長く重要な問いでした。

なぜ苦しみが生まれるのか。なぜ人は執着するのか。思考とは何か。自我とは何か。観察しているものは誰なのか。私たちは何を自分だと思っているのか。

こうした問いは、人間の認識だけでなく、意識や存在そのものへとつながっていきます。

ただし、心理学や神経科学における実証研究と、宗教的・霊的伝統における探究を、同じ方法によるものとして扱うことはできません。

現代の学術研究では、観察や実験、測定、理論的検討などによって問いを検討していきます。一方、宗教的・霊的伝統には、瞑想や内観、自己観察などを通して、自分自身の経験を確かめていく実践があります。方法は異なります。

そして現在では、瞑想のように、もともと宗教的・霊的伝統の中で行われてきた実践を、心理学や神経科学の方法によって研究する領域もあります。

本を読んで「執着とは何か」を知ることと、自分が何かを握りしめていることに気づくことは、同じではありません。認識について知ることと、自分自身の認識を見ることもまた、同じではありません。

この違いは、人間の認識について考えるときに大切なのだと思います。

 

認識は、一つの学問だけには収まらない

ここまで見てくると、「人間の認識は誰が研究しているのか」という最初の問いへの答えは、一つではありません。

心理学は、人間の知覚や記憶、思考、判断を研究しています。認知科学は、複数の学問を横断しながら、人間がどのように情報を受け取り、理解するのかを研究しています。神経科学は、それらの働きと脳や神経系との関係を研究しています。

哲学は、そもそも「知る」とは何なのか、私たちは何を知ることができるのかを問い続けてきました。社会心理学や文化心理学、社会学、人類学などは、他者や文化、社会と人間の認識との関係に関わっています。そして宗教や霊的伝統にも、自分自身の意識や経験を観察してきた長い歴史があります。

人間の認識を扱っている場所がないのではありません。むしろ、さまざまな場所に分かれて存在しています。

脳から見る。心の働きから見る。社会や文化との関係から見る。「知る」ということそのものから見る。自分自身の経験を観察するところから見る。

同じ人間を見ていても、どこから見るのかによって、問いも方法も変わります。

だからこそ、一つの領域だけで結論を急ぐのではなく、それぞれの領域ですでに何が考えられ、何が明らかにされ、何がまだ問いとして残っているのかを知ることには意味があります。

 

それでも最後には、自分自身の認識へ戻ってくる

比較。承認欲求。不安。怒り。劣等感。執着。自己否定。

私たちが人生の中で経験するこれらのものには、自分が出来事をどのように受け取り、どのような意味を与えているのかが深く関わっています。

何が起きたのか。それをどう受け取ったのか。どのような意味を与えたのか。何を前提として見ていたのか。そして、その前提はどこから来たのか。

人間の認識について研究されてきたことを知ることは大切です。けれど、それを知識として蓄えることと、自分自身の認識が見えることは同じではありません。

どれほど多くの本を読んでも、自分が何を恐れているのかは、自分自身を見なければわからないことがあります。どれほど認知バイアスについて知っていても、自分自身が何を当然だと思い込んでいるのかには気づかないことがあります。

だから認識は、学問の対象であると同時に、一人ひとりが自分自身の人生を通して見つめることのできるものでもあるのでしょう。

私たちは、世界をそのまま見ているのでしょうか。それとも、記憶や経験、社会から受け取った価値観、思考、感情、身体、そして自分が立っている意識の位置を通して、世界を見ているのでしょうか。

その問いを深く見つめていくと、認識について知ることは、やがて「自分とは何か」という問いへつながっていきます。

人間の認識は誰が研究しているのか。その答えを外側に探してみると、心理学、認知科学、神経科学、哲学、社会学など、すでに多くの学問が、それぞれ異なる位置からこの問題に向き合ってきたことがわかります。

さらに、人間は学問が成立する以前から、自分自身の心や意識を見つめてきました。そして、それらを知ったあとに残るのは、おそらくもう一つの問いです。

では、私はいま、何を通してこの世界を見ているのだろう。

認識を見つめることは、世界について知ることであると同時に、自分自身を知っていくことでもあるのだと思います。

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