
なぜ私は、この道を選んでいるのか
私は以前、店舗経営をしていました。
売上は伸び、組織は回り、人材育成やマネジメントにも関わっていました。
現場に常駐しなくても店舗は動き、利益は生まれ続けていました。
世間的に見れば、私は「経営者として成功していく側」の流れにいたのだと思います。
ただ、ここで少し補足しておきたいことがあります。
私は、突然経営の世界へ入ったわけではありません。
父が経営者であり、親族にも経営者が多い環境の中で育ちました。
母も、父と一緒にお店を経営していました。
私は子どもの頃から、「自立すること」は当たり前の前提として存在していました。
15歳から両親の仕事を手伝わせていただき、現実や責任の中へ入っていくことは、私にとって特別なことではありませんでした。
将来的には、その流れを引き継いでいくことも自然な選択肢として存在していたのだと思います。
もっと拡大することもできたでしょう。
もっと利益を追うこともできたでしょう。
社会的な立場を、さらに高めていくこともできたのかもしれません。
けれど、私はその道を、自分の中心には置かなくなりました。
成功の構造を見続けた先で
それは、経営に失敗したからではありません。
社会で通用しなかったからでもありません。
むしろ私は、一度その流れの中へ入り、組織や競争、成功や承認の構造を、ある程度実感として経験しました。
私のお店の周辺には、NTT西日本博多ビルや国家公務員の方々が働く福岡合同庁舎があり、美容や医療・福祉関係の専門学校、柔道整復師や医師の予備校、外国人が通う日本語学校、居酒屋、博多スターレーンというボウリング場、ハイアットリージェンシー福岡ホテル、そしてJR博多駅へ向かう人の流れが密集していました。
昼と夜で街の表情は大きく変わり、学生、会社員、公務員、観光客、外国人労働者、酔客、医療関係者など、さまざまな立場の人々が交差していました。
私は、そうした社会の流れの中で、店舗を運営し、人を育て、日々を回していました。
人は何に動かされるのか。
なぜ競争するのか。
なぜ認められたいと願うのか。
組織はどのように回り、社会はどのような前提によって成立しているのか。
私は、そうしたものを長い時間をかけて見続けてきました。
もちろん、社会は必要です。
仕事も必要です。
お金も必要です。
経済活動そのものを否定したいわけではありません。
けれど、成功、競争、拡大、承認といったものを深く見続けていると、それらが巨大な「前提共有」の上に成立していることが見えてきます。
より上へ。
より強く。
より豊かに。
より認められる存在へ。
社会は、その方向へ向かうことを当然の前提として動いています。
そして、多くの人は、そのゲームを疑うことなく生きています。
もちろん、これは現実を軽視しているという意味ではありません。
私がここで「ゲーム」と呼んでいるのは、社会の中で長い時間をかけて共有されてきた価値観や前提、そして人々が無意識に参加している構造全体のことです。
私自身も、かつてはその流れの中にいました。
けれど、見続けるほど、以前と同じ熱量では、そのゲームへ没入できなくなっていったのです。
競争を見ても、構造が見える。
承認を見ても、欠乏が見える。
成功を見ても、投影が見える。
すると、「もっと上へ行きたい」というエネルギーそのものが、少しずつ静かになっていきました。
そして、ある問いが残り続けたのです。
「本当に、自分はここへ人生を使いたいのだろうか?」
なお、私自身は、経営そのものを否定しているわけではありません。
むしろ、店舗運営や人材育成の現場を通して、「内側の意識状態が、外側の現実へどのように反映されるのか」ということを、長い時間をかけて観察してきました。
その視点については、こちらの記事にも書いています。
→ 店舗経営で最も大切なポイントは何ですか? 「内側」が「外側」を創る経営の本質
なぜ、わざわざこの道を選ぶのか
現在、私は子育てをしながら、このサイトの記事を書いています。
過去の経験を使えば、もっと分かりやすく社会的な成果へ向かう道もあったのかもしれません。
けれど私は、今、この道を選んでいます。
それは、現実から逃げているからではありません。
むしろ、現実の構造を見た上で、自分が本当に人生を使いたい方向を選んでいるのです。
私が扱っている「意識」や「本来の自己への回帰」というテーマは、現実を知らないまま空中で語っている概念ではありません。
社会の中へ入り、組織を動かし、成功や承認の力学を経験し、その上でなお残った問いから生まれているものです。
人はなぜ、外側の評価に人生を預けてしまうのか。
なぜ、自分の本質から離れてまで、社会の物語に合わせようとするのか。
そして、その構造に気づいたあと、人はどのように自分自身へ戻っていくのか。
私は、その問いを見つめ続けています。
また、この問いは、かつて私が「客観的に見ること」と「主観で挑むこと」の境界で受け取った学びとも深くつながっています。
その出来事については、10年前の体験として、こちらの記事に書いています。
→ 主観で挑むという覚悟 客観と主観の境界で得た本質的な学び
私はやはり、人材育成家なのだと思います
以前の私は、店舗経営やマネジメントの中で、人を育てることに関わっていました。
スタッフが自ら考え、動き、現場を支えられるようになる。
人が変わり、場が変わり、組織が変わっていく。
その過程に、私は深い関心を持っていました。
そして今、形は大きく変わりました。
私はもう、店舗の中で人を育てているわけではありません。
組織の成長や売上拡大を目的として、人材育成をしているわけでもありません。
けれど、やはり私は、人材育成家なのだと思います。
ただし、私が今見ているのは、社会に適応するための人材育成ではありません。
より成果を出すための人材育成でもありません。
人が、自分自身の本質へ戻っていくための変化です。
社会の評価に合わせて作られた自分ではなく、もっと深いところにある本来の自己へ戻っていく。
社会の物語へ無意識に飲み込まれるのではなく、その構造に気づき、自分の内側から人生を選び直していく。
そのための言葉を、私は書いているのだと思います。
本当に人生を使いたいもの
世間的に見れば、今の私の選択は、遠回りに見えるかもしれません。
もっと分かりやすく評価される道もあるでしょう。
もっと社会的な成功として説明しやすい道もあるでしょう。
それでも私は、このサイトを作り続けています。
なぜなら、私にとっては、こちらのほうが自然だったからです。
社会的な成功を否定したいわけではありません。
けれど、それを人生の中心に置くことは、もうできなくなりました。
私は、人が本来の自己へ戻っていくことに関わりたい。
社会の中で作られた自分ではなく、もっと深いところにある本質へと戻っていく、その過程に言葉を置きたい。
それが、今の私にとっての仕事なのだと思います。
だから私は、この道を選んでいます。
たとえ時間がかかっても。
たとえ分かりやすい社会的評価から遠ざかっても。
私は、自分が本当に意義を感じるものへ、人生を使いたいのです。
私たちは、社会の中で多くの役割を生きています。
働くこと。
評価されること。
期待に応えること。
責任を果たすこと。
それらは、人生において大切な営みです。
けれど、その流れの中で、ふと立ち止まり、「自分は本当は何に人生を使いたいのだろう」と感じる瞬間があるのかもしれません。
その問いに、すぐ答えを出す必要はありません。
ただ、自分の内側に生まれた小さな違和感や静かな感覚を、無かったことにせず見つめてみる。
そこから、人それぞれの「本来の人生」が、少しずつ始まっていくのだと思います。
あなたは、何に人生を使いたいと感じていますか。
社会の中で求められる役割。
周囲から期待される生き方。
それらを大切にしながらも、そのさらに奥で、自分自身が本当に大切にしたいものは何なのか。
もし今、言葉にならない違和感や静かな感覚が内側にあるのなら、その感覚を、すぐに打ち消さずに見つめてみても良いのかもしれません。