
人類は奴隷だったのか|AI時代に問い直される労働と自由、そのさらに奥にあるもの
AIが発達すれば、現在、人間が担っている仕事の多くは必要なくなる。
そのような未来予測を、以前より頻繁に目にするようになりました。
具体的にどれほどの仕事がなくなるのかは、まだわかりません。
「九割」という数字を挙げる人もいますが、その数字自体を現時点で事実として確定することはできないでしょう。
それでも、これまで人間が行ってきた知的作業や事務作業、制作、管理、判断の一部をAIが担うようになり、仕事のあり方が大きく変わっていくという方向性は、私にも理解できます。
それは、どこか不自然な出来事というより、技術と社会の長い変化の先にある、比較的自然な流れにも見えます。
ただ、そのような未来について語られるなかで、気になる表現がありました。
「これまでの人間は奴隷だった」
仕事から解放される未来と対比して、それ以前の人類を奴隷として捉える見方です。
この言葉には、たしかに理解できる部分があります。
人間は長いあいだ、生活を維持するために働いてきました。
自分が望むかどうかとは別に、食べるため、住むため、家族を養うために労働しなければならなかった人も少なくありません。
制度や組織に従い、自分の時間や身体を差し出し、その対価として生活に必要なお金を得る。
現代の労働にも、拘束や服従と呼び得る性質が含まれていることは否定できません。
しかし、それだけを見て、「人類は奴隷だった」と結論づけることには、私は違和感があります。
これは、過去の人々を擁護したいからでも、労働を美化したいからでもありません。
むしろ、奴隷か自由かという言葉だけでは、人間がこの世界で経験してきたことを、十分に捉えられないように感じるのです。
「奴隷」という言葉は、何を意味しているのか
まず、「奴隷」という言葉の意味を分けて考える必要があります。
歴史的・法的な意味での奴隷とは、他者の所有物として扱われ、売買され、移動や職業、家族形成などの自由を奪われた人を指します。
この意味での奴隷制度は、歴史上、実際に存在してきました。
したがって、現代社会で賃金を得て働いてきた人々を、歴史上の奴隷とそのまま同一視することはできません。
退職や転職の自由が形式上はあり、法的には人格と権利を認められた人間と、人間としての法的地位そのものを奪われた奴隷との間には、明確な違いがあります。
一方、「奴隷」という言葉は、昔から比喩としても使われてきました。
お金の奴隷。
欲望の奴隷。
組織の奴隷。
常識の奴隷。
自分では自由に生きていると思っていても、実際には何かに強く拘束され、そこから抜け出せない状態を表す言葉です。
「人類は奴隷だった」という主張の多くも、法律上の奴隷を意味しているのではなく、こちらの比喩的な意味で使われているのでしょう。
つまり、人々は社会の仕組みに従わされ、働かなければ生きられず、本当に望む人生を送ることができなかった。
その状態を奴隷と表現しているのだと思います。
その意味であれば、まったく根拠のない主張ではありません。
しかし、比喩は、ある側面を鮮明に見せると同時に、別の側面を見えなくすることがあります。
奴隷という言葉を用いた瞬間、社会は支配する側と支配される側に分けられ、人間は一方的に自由を奪われた存在として描かれます。
けれども、実際の人間と社会の関係は、それほど単純なのでしょうか。
人間は、たしかに多くのものに制約されている
人間は、完全に自由な状態から、自分の人生を選んでいるわけではありません。
生まれる国も、時代も、家庭も、自分では選べません。
生まれたときには、すでに言語があり、法律があり、貨幣があり、学校があり、仕事という仕組みがあります。
何を立派と考えるのか。
どのような生き方を正常と考えるのか。
何を成功と呼び、何を失敗と呼ぶのか。
私たちは、それらを何もないところから自分で作り出したのではありません。
自分が生まれる前から存在していた世界のなかで、少しずつ学んでいきます。
この点については、哲学、心理学、社会学、宗教など、さまざまな領域で異なる角度から考えられてきました。
生物としての人間
人間は、肉体を持った生物です。
空腹になれば食べ物を求め、危険を感じれば身を守り、孤立すれば不安を感じます。
生存や繁殖、集団への所属に関わる傾向は、人間が意識的に考える以前から身体に備わっています。
その意味で、私たちの行動は、理性だけによって決められているわけではありません。
自由に考えているように見える場面にも、身体の状態、神経系の反応、恐怖や欲求が関係しています。
無意識に動かされる人間
心理学は、人間が自分自身について完全に理解しているわけではないことを明らかにしてきました。
私たちは、自分で理由を考え、自分で決めたつもりで行動します。
しかし、その判断には、過去の経験、傷ついた記憶、周囲から学んだ価値観、認知の偏り、無意識の防衛などが影響しています。
なぜその人を嫌うのか。
なぜ同じ失敗を繰り返すのか。
なぜ望んでいないはずの場所から離れられないのか。
その理由を、本人が正確に理解しているとは限りません。
自分で選んでいるという感覚を持ちながら、実際には自分でも気づいていない力に動かされている。
その意味では、人間の自由は最初から限定されています。
社会によって作られる「当たり前」
社会学は、人間の好みや価値観、振る舞いが、社会環境によって形成されることを見てきました。
何を美しいと思うのか。
どのような話し方を信用するのか。
どの職業を立派だと思うのか。
どのような暮らしを成功と呼ぶのか。
それらは、純粋に個人の内側だけから生まれてくるものではありません。
家庭、学校、地域、階層、メディア、職場などを通して、私たちは世界を見るための枠組みを身につけていきます。
しかも、その枠組みは、本人にとってあまりにも自然なため、枠組みとして意識されません。
社会から教えられた価値観を、自分自身の価値観だと感じることもあります。
社会の要請に応えることを、自分の夢だと思うこともあります。
その状態を、社会の奴隷と表現する人がいても不思議ではないでしょう。
制度によって整えられる人間
現代社会は、暴力だけで人間を従わせているわけではありません。
学校では時間割に従い、会社では勤務時間や評価制度に従い、社会では法律や慣習に従います。
決められた時間に起きる。
決められた場所へ行く。
求められる成果を出す。
評価される振る舞いを身につける。
このような日常を繰り返すうちに、人間は外部から命令されなくても、自分で自分を管理するようになります。
遅れてはいけない。
休んではいけない。
役に立たなければならない。
生産的でなければならない。
制度の基準は、やがて人間の内側に取り込まれます。
誰かに監視されていなくても、自分で自分を監視し、評価し、追い立てるようになる。
この構造を見れば、「鎖の見えない奴隷」という表現が生まれる理由も理解できます。
それでも、支配されるだけの存在ではなかった
ここまでを見ると、人間はやはり奴隷だったのではないかと思えるかもしれません。
生物学的な欲求に動かされ、無意識に影響され、社会の価値観を内面化し、制度のなかで働く。
自由だと思っていたことさえ、あらかじめ作られた選択肢のなかから選んでいただけなのかもしれません。
しかし、人間の歴史には、それだけでは説明できないものもあります。
人は制度に従うだけでなく、制度を作ってきました。
社会の価値観を受け入れるだけでなく、それを疑ってきました。
不合理な慣習に抵抗し、新しい思想を生み、法律を変え、別の生き方を試みてきました。
また、すべての労働が、ただ強制されてきたわけでもありません。
人は、何かを作ることに喜びを感じます。
誰かを育てること、誰かを助けること、技術を磨くこと、共同で一つのものを成し遂げることにも、意味を見いだしてきました。
生活のために働くという制約のなかにも、誇り、使命感、愛情、創造性がありました。
家族を養うための仕事は、経済的な強制であると同時に、家族への責任や愛の表現でもあり得ます。
組織のなかで働くことは、服従であると同時に、他者と協力して社会を支える営みでもあり得ます。
この両面を無視し、人間を一方的な被害者としてのみ描くなら、それもまた、人間という存在を単純化することになります。
人間は、社会によって作られながら、社会を作っています。
制度に従いながら、制度を維持しています。
価値観を教えられながら、その価値観を次の世代へ伝えています。
私たちは、構造の外部にいる純粋な被支配者ではありません。
構造の内部に生き、その構造を再生産する一員でもあります。
だからこそ、社会の問題を「支配者が人々を奴隷にした」という物語だけで説明することには限界があります。
支配する側とされる側が、常に明確に分かれているとは限りません。
誰も全体を意図していないまま、多くの人の判断や習慣が積み重なり、一つの大きな構造が維持されることもあります。
人間は構造に拘束されている。
しかし同時に、人間自身が、その構造を作り続けてもいる。
この二つは、同時に存在します。
自由とは、何から自由になることなのか
奴隷という言葉を考えるとき、反対側には自由という言葉があります。
けれども、自由とは何でしょうか。
誰からも命令されないこと。
働かなくても生きられること。
好きな場所へ行き、好きなことをすること。
それも自由の一つでしょう。
しかし、外部からの制約がなくなれば、人間は本当に自由になるのでしょうか。
会社を辞めても、社会的な評価を気にし続けるかもしれません。
お金に困らなくなっても、他者と比較することをやめられないかもしれません。
AIが仕事を代わりに行うようになっても、自分には価値がないという感覚から逃れられない人もいるでしょう。
外側の鎖がなくなっても、内側に取り込まれた基準は残ります。
欲望、不安、執着、恐怖、承認への渇望。
宗教や哲学が古くから向き合ってきたのは、この内面的な拘束でした。
欲望や執着の奴隷
仏教では、人間の苦しみは、物事を自分の望む形に固定しようとする執着や、物事の本質を見誤る無明と深く関係すると考えられてきました。
欲しいものが手に入らないから苦しむ。
手に入れたものを失うことを恐れる。
変化するものを、変わらないものとして握りしめようとする。
この見方では、人間を束縛しているものは、国家や会社だけではありません。
自分自身の認識や執着が、苦しみを生み出しています。
情念に支配される人間
古代の哲学にも、自由を外的条件だけで考えない伝統があります。
富や地位を持っていても、恐怖や怒り、欲望に振り回されているなら、その人は自由ではない。
反対に、外的には制約された状況にあっても、自分の判断や態度を失わなければ、内面的な自由は保たれる。
ここでは、自由とは「何でも思いどおりにできること」ではなく、自分を動かしているものを見分け、それに無自覚に支配されないこととして捉えられます。
自分で選ぶことの重さ
一方、人間はどのような状況でも、完全に選択を失うわけではないという考え方もあります。
環境を選べなくても、その環境をどう受け止めるか。
社会の価値観を教えられても、それを受け入れるか、問い直すか。
限られた選択肢のなかで、どの道を選ぶのか。
人間には、状況の影響を受けながらも、それに対して何らかの態度を取る余地が残されています。
ただし、これは「どのような境遇も本人の自己責任である」という意味ではありません。
選択肢の数も、選択に伴う負担も、人によって大きく異なります。
自由があることと、条件が平等であることは別の話です。
それでも、人間を完全に受動的な存在として捉えないためには、このわずかな選択の余地を無視することもできません。
学問は、人間の異なる側面を見ている
ここまで見てきたように、人間の自由や拘束について、さまざまな分野が異なる説明を行っています。
生物学は、身体と生存の働きを見ます。
心理学は、無意識や認知の働きを見ます。
社会学は、文化や階層、制度による形成を見ます。
政治や経済の研究は、権力や資源配分の構造を見ます。
哲学は、自由や責任、存在の意味を問います。
宗教は、執着や罪、無明、魂の救済について考えてきました。
これらのうち、どれか一つだけが正しく、他がすべて間違っているということではありません。
人間は生物でもあり、心理的な存在でもあり、社会的な存在でもあります。
身体、無意識、認識、制度、文化は、別々に存在しているのではなく、一人の人間のなかに同時にあります。
たとえば、ある人が会社を辞められないとします。
そこには、収入を失うことへの現実的な不安があります。
家族を養う責任もあるかもしれません。
失敗した人と思われたくないという気持ちもあるでしょう。
安定した仕事を続けることが正しいという、社会的な価値観を身につけている可能性もあります。
過去の経験から、変化そのものに恐怖を感じていることも考えられます。
一つの行動の背後には、身体、心理、関係、制度、経済、文化が重なっています。
だから、「会社に支配されている」「本人に勇気がない」「社会の奴隷である」と、一つの説明だけで理解しようとすると、必ず何かがこぼれ落ちます。
学問ごとの違いは、どれが正しいかという対立だけではありません。
人間を、どの範囲まで見ているかの違いでもあります。
しかし、Office Human Nature は、ここでもう一つ、さらに根本にある階層を見ています。
人間を、どの階層から見ているのか
Office Human Nature では、人間の本質を、肉体や社会的役割だけに限定していません。
人間の根源には、霊、魂、スピリットと呼ばれてきた存在がある。
そして、その存在が、この現実と呼ばれる世界において、さまざまな体験をしている。
これが、私の探究における出発点です。
学術的に確認された事実として読者に受け入れるよう求めているわけではありません。
世界には異なる前提を持つ人がいます。肉体の死によって意識も終わると考える人もいれば、魂や輪廻転生を受け入れている人もいます。
その違いを無視して、一つの世界観を押しつけるつもりはありません。
しかし、他者への配慮と、自分の研究の出発点を曖昧にすることは、同じではありません。
私は、霊が先にあり、この世界は霊が体験する場であるという前提から、人間を見ています。
そのうえで、認識、心理、身体、社会構造、制度、歴史を研究しています。
社会構造が人間を作るという見方だけではありません。
人間の認識が社会構造を生み、その社会構造が、再び人間の認識を形づくる。
そして、その往還そのものを経験している存在とは何か。
そこまで含めて、人間を理解しようとしています。
社会構造は、霊性と対立するものではない
霊性を最上位に置くと言うと、社会の問題を軽視しているように受け取られることがあります。
苦しみも貧困も差別も、魂が選んだ体験なのだから問題ではない。
そのような結論へ進んでしまえば、現実に苦しんでいる人への無理解や、社会的な不正の正当化につながりかねません。
私は、そのようには考えていません。
霊性を見つめることと、社会構造を正確に見ることは対立しません。
むしろ、人間がこの世界で体験していることを理解しようとするなら、その体験を形づくっている制度や歴史、経済、権力について知る必要があります。
社会構造によって、選択肢を大きく狭められている人がいます。
本人の努力では変えられない条件があります。
制度によって、不合理な負担を負わされる人もいます。
それを「魂の学びだから」と片づけるなら、霊性という言葉を使って、現実を見ないことになります。
反対に、社会構造だけを見て、人間を制度の結果としてのみ説明するなら、存在そのものの深さを見失うことがあります。
人間には、社会的条件だけでは説明しきれない意識、意味、内的変容があります。
社会を見なければ、現実から離れます。
霊性を見なければ、人間を表層だけで理解することになります。
この二つは、どちらかを選ぶものではありません。
異なる階層にありながら、同時に存在しています。
霊が体験しに来ているなら、労働とは何なのか
ここで、最初の問いへ戻ります。
これまで働いてきた人間は、奴隷だったのでしょうか。
社会構造の階層から見れば、奴隷的と呼び得る状態はたしかにあります。
働かなければ生活できない。
制度に従わなければ、社会から排除される。
評価され続けなければ、生活の基盤を失う。
このような状態を、自由とだけ表現するのは難しいでしょう。
労働には、歴史的に形成された服従の構造が含まれています。
一方で、霊性を最上位に置けば、それだけが全体ではなくなります。
人間はただ制度に閉じ込められているのではなく、その制度のなかで、喜び、苦しみ、責任、協力、失敗、創造、喪失、達成を経験しています。
これは、苦しい労働を肯定するという意味ではありません。
不合理な制度を保存すべきだという意味でもありません。
現実の制約を、霊的な言葉で美化するものでもありません。
ただ、そこで生じていたことを「支配されていただけ」と捉えるなら、人間が経験したものの一部しか見ていない可能性があります。
ある人は、働くなかで自分の弱さを知ったかもしれません。
ある人は、他者と協力することを学んだかもしれません。
ある人は、不合理な組織を経験したからこそ、制度そのものを疑うようになったかもしれません。
ある人は、家族のために働くことを通して、責任や愛を知ったかもしれません。
ある人は、限界まで追い詰められ、自分が何者であるのかを問い直したかもしれません。
社会構造は、その人を拘束していた。
しかし、その拘束のなかで、何かが経験されてもいた。
この二つもまた、同時にあり得ます。
「体験」という言葉で、苦しみを正当化しない
ここで慎重でありたいのは、「すべては体験である」という言葉の扱いです。
体験であるなら、何が起きてもよい。
苦しみも差別も搾取も、魂が望んだことだから変える必要はない。
そのような使い方をすれば、霊性は現実への無関心を正当化する道具になります。
私たちは、霊的な全体像を完全に知っているわけではありません。
ある人がなぜその人生を生き、なぜその出来事を経験しているのかを、他者が簡単に断定することはできません。
「あなたの魂が選んだのだから」と言うことは、相手の苦しみを理解せず、説明によって閉じ込めることにもなります。
霊性を前提にすることは、現実の痛みを小さく扱うことではありません。
むしろ、この世界に現れている苦しみや不合理を、より深く観察することにつながるはずです。
なぜ、このような制度が生まれたのか。
なぜ、人はそれを当然だと思うようになったのか。
なぜ、苦しみながらも構造を維持するのか。
そして、その状況のなかで、人間の意識には何が起きているのか。
霊性を出発点に置くからこそ、現実から離れるのではなく、現実を人間の体験として、さらに丁寧に見る必要があります。
AIは、人間を解放するのか
AIによって仕事が減れば、人間は奴隷状態から解放される。
そのような未来像は、魅力的に映ります。
たしかに、望まない単純労働や、過度な事務作業、身体や心を消耗させる仕事をAIや機械が担うようになれば、人間の負担は減るでしょう。
生活のためだけに長時間働く必要がなくなれば、人は学び、創作し、家族や地域と関わり、自分自身を見つめるために時間を使えるかもしれません。
それは、人類にとって大きな変化です。
ただし、仕事がなくなることと、人間が自由になることは同じではありません。
AIを所有し、管理する側に富や権力が集中すれば、新しい依存関係が生まれる可能性があります。
仕事が減っても、生活資源へアクセスする権利が保障されなければ、多くの人は別の形で拘束されます。
また、経済的な問題が解消されたとしても、人間の内側にある不安や比較、承認欲求まで自動的に消えるわけではありません。
何者かでなければならない。
価値を証明しなければならない。
他者より優れていなければならない。
常に刺激を受けていなければならない。
そのような認識を持ったままなら、人間は仕事以外のものに自分を拘束するかもしれません。
仕事から解放された人間が、次に何をするのか。
それは、技術だけでは決まりません。
人間が自分自身を何者だと認識しているかによって変わります。
AI時代に問われるのは、仕事の有無だけではない
AIの発展によって、本当に大きく問われるのは、「どの仕事が残るか」だけではないのだと思います。
これまで人間は、自分の価値を職業や生産性と結びつけてきました。
何の仕事をしているのか。
どれだけ稼いでいるのか。
社会にどれほど役立っているのか。
その基準によって、自分や他者を評価してきました。
もしAIが、人間より速く、正確に、多くの仕事を行うようになれば、この価値基準は揺らぎます。
仕事ができることが人間の価値ではないなら、人間の価値はどこにあるのか。
生産しなくても、人間には存在する意味があるのか。
何かを達成しなくても、生きていてよいのか。
AI時代は、人間を労働から解放するだけではなく、これまで労働によって覆い隠されていた問いを、表面へ押し出すのかもしれません。
それは、経済制度だけの問題ではありません。
人間が自分自身を、どの階層から理解しているのかという問題です。
奴隷でも、完全に自由な存在でもない
社会構造から見れば、人間は多くの制約を受けています。
心理の階層から見れば、人間は無意識や欲望、恐怖に影響されています。
身体の階層から見れば、生存や安全を求める働きに動かされています。
そのため、人間を完全に自由な存在だと言うことは難しいでしょう。
しかし、人間は制約されるだけの存在でもありません。
自分を動かしている前提に気づき、それを問い直すことができます。
制度を変えることができます。
自分の認識を観察することができます。
与えられた状況に、どのような意味を見いだすかを考えることもできます。
そして、霊性を出発点に置くなら、人間は、奴隷か自由かという対立だけでは捉えられなくなります。
社会のなかでは制約されている。
認識のなかでは無意識に動かされている。
しかし、そのすべてを通して、何かを体験している存在でもある。
ここでは、「奴隷だった」という説明も、「自由だった」という説明も、全体の一部になります。
どちらかが完全な答えではありません。
問いそのものを、一段上から見直す
これまでの人間は、奴隷だったのか。
社会構造のなかには、奴隷的な性質がありました。
現在にも残っています。
その構造を明らかにし、変えていくことには意味があります。
しかし、だからといって、人間の歴史全体を「奴隷であった時代」として捉えるなら、そこで経験されてきた創造、愛、責任、抵抗、学び、変容まで、一つの言葉で覆ってしまいます。
そして、AIが仕事を担えば、人間は自動的に自由になるという見方にも、同じ単純化があります。
外側の制度が変わっても、人間の認識が変わらなければ、別の構造が生まれるでしょう。
何を自由と呼ぶのか。
何が人間を拘束しているのか。
そもそも人間とは、社会のなかで生産するために存在しているのでしょうか。
あるいは、霊や魂と呼ばれる存在が、この現実という次元で何かを体験しているのでしょうか。
その前提によって、労働も、制度も、自由も、苦しみも、まったく異なる意味を持ち始めます。
AIによって仕事が変わろうとしている今、問われているのは、仕事の未来だけではないのかもしれません。
私たちが人間を、どの階層から見ているのか。
そして、この世界を、何のための場所だと考えているのか。
奴隷だったのか、自由だったのか。
その答えを急ぐ前に、私たちはまず、その問いを立てている前提そのものを見つめ直す必要があるのだと思います。