
影響を与えるという「邪道」を捨てて 人との関わりにおける静かな転換
かつて私は、人との関わりを通して「影響を与えること」や「変化を起こすこと」に、何よりの価値を見出していた時期がありました。
経営や人材育成という、常に「結果」を求められる現場。
どうすれば人の行動や意識が変わるのかを考え抜き、時には意図的に、戦略的に関わろうとしたこともあります。
その経験自体が無意味だったとは思いません。
泥臭く人と向き合った時間は、確かに私の一部になっています。
けれど、経験を重ねるうちに、拭いきれない違和感が静かに、しかし確実に芽生えていきました。
変化していたのは「誰」だったのか
関わりによって、相手が変わったように見える瞬間はあります。
しかし、しばらくすると以前と同じ振る舞いに戻っていたり、あるいは別の場面では全く違う反応を見せたりする。
その繰り返しの中で、私はある一つの事実に突き当たりました。
「目の前の相手が変わったように見えたとき、実際に変化していたのは相手ではなく、私自身の内側の状態だったのではないか」
自分の中のイメージや思念が変わると、相手はまるで別人のように振る舞い始めます。
それは相手を操作した結果ではなく、私の側の「見方」や「関わり方の周波数」が変化したことで、相手の異なる側面が映し出されたに過ぎない。
そう理解したとき、人を意図的に導こうとすることや、望ましい方向へ動かそうとすることは、どこか本質を外れているように感じられました。
それは効率や善悪の問題ではありません。
ただ、「邪道だ」。
その言葉が、すとんと腑に落ちたのです。
避けられない「影響」という響き合い
もちろん、私は熟知しています。
人は、ただそこに存在するだけで、周囲に影響を与えてしまう生き物だということを。
言葉を発さずとも、直接手を下さずとも、私たちの存在そのものが放つ「何か」は、さざ波のように他者へと伝わっていきます。
そして私自身もまた、数多くの出会いや言葉から影響を受け、削られ、形作られて現在の場所に立っています。
影響を与えることは、避けられない自然現象です。
だからこそ、私は「意図的な操作」を手放しました。
人は他人の期待や思念に応じて振る舞うことはあっても、それによって本質が変わるわけではありません。
「誰かを変えた」という全能感に浸っているときほど、自分自身の本当の在り方は見えなくなっていくものです。
どうせ影響を与え合ってしまうのであれば、せめて自分自身の在り方を純化させていたい。
それ以来、私は「どう変えるか」ではなく、「今、自分はどのような状態で相手と向き合っているか」を、より切実に問い続けるようになりました。
辿り着いた、当たり前の場所
今でも言葉は使い続けています。
けれど、言葉を使って「何かを起こそう」とすることからは距離を置きました。
相手の人生に踏み込まず、変化を期待せず、それぞれが自分自身の場所へと戻っていける「余白」を残しておくこと。
互いに影響を受け合う運命を認めながらも、その先にある個々の尊厳を尊重したいのです。
振り返れば、私は何度も同じ地点に戻ってきています。
人と出会い、何かを試み、そして最終的には「人は操作できないし、するべきでもない」という、ごく当たり前の場所に立っている。
この在り方が、社会的に正解かどうかは分かりません。
ただ、この地点に戻るたび、私の内側は以前よりもずっと静かになっています。
何者かになろうとし、誰かを変えようとしていた頃には決して得られなかったこの静寂こそが、私にとっての確かな真実なのです。