
正解を知るほど、不自由になるのはなぜか
世の中には、たくさんの「正しいやり方」があります。
どうすれば人の目に留まるのか。どうすれば行動につながるのか。どうすれば収益へ変わるのか。
仕事だけではありません。勉強の仕方、人との接し方、健康の保ち方、お金の扱い方、生き方まで。何かに迷えば、私たちは「どうすればいいのか」を調べることができます。
そして多くの場合、そこにはすでに何らかの答えがあります。専門家の知識があり、マニュアルがあり、テンプレートがあり、成功事例があり、再現性のある型があります。
知らなければ何年もかかったことを、短い時間で知ることができる。それは、知識が蓄積され、共有されることの大きな恩恵です。
ところが、不思議なことがあります。
正しい方法を知るほど、かえって動けなくなることがある。学べば学ぶほど、自分がどうしたいのかわからなくなることがある。「こうした方がいい」と知ったことで、それ以外の選択をすることに不安を感じることもあります。
本来、選択肢を増やすはずだった知識が、いつの間にか自分を縛るものになっている。
なぜ、このようなことが起こるのでしょうか。
正解は、どこから来るのか
そもそも、私たちが「正しい」と呼んでいるものは、すべて同じものではありません。
事実として確かめられていることもあります。経験から導かれた方法もあります。特定の目的を達成するために有効な手段もあります。社会の中で広く共有されている慣習や、制度を動かすために決められたルールもあります。
けれど日常の中では、それらがひとまとめに「正しいこと」として受け取られることがあります。
たとえば、「こうすると商品が売れやすくなる」という方法があったとします。その方法が実際に有効であることと、自分がその方法を使いたいかどうかは、本来別の問題です。
売上を増やすことが目的なら、その方法は合理的かもしれません。しかし、自分がどのような言葉で人と関わりたいのか、どのような関係の中で価値を受け渡したいのかまで、その方法が決めてくれるわけではありません。
ところが、「効果がある」ということを知っているうちに、それが「そうした方がいい」に変わり、さらに「そうするべきだ」という感覚へ変わることがあります。
正解そのものではなく、正解との関わり方によって、私たちの選択は少しずつ変わっていきます。
方法を学ぶとき、目的まで受け取っていないか
私自身、ウェブサイトを運営する中で、さまざまな方法論を学んできました。
どうすれば読まれるのか。どうすれば検索されるのか。どのようなタイトルなら目に留まりやすいのか。どこに導線を置けば、人は行動しやすいのか。
知れば、確かに役に立ちます。実際に使えば、数字が改善するものもあります。だから、それらを否定する理由はありません。
ただ、学んでいく中で、私は別のことが気になるようになりました。
方法だけを取り入れているつもりでも、その方法が前提としている「何を成果とするのか」まで、一緒に受け入れてはいないだろうか。
より多く読まれること。より長く滞在してもらうこと。より多く反応してもらうこと。より高い割合で購入してもらうこと。
それらを目的とするなら、そのために蓄積された方法を使うことは合理的です。
けれど、私はあるところで立ち止まりました。
私は、本当にそれを最大化したいのだろうか。
もちろん、書いたものは読まれたい。活動を続けるためには収益も必要です。必要としている人に届いてほしいとも思います。
しかし、「届くこと」と「できるだけ多くの人を動かすこと」は、同じではありません。
方法を使うこと自体に問題があるのではありません。その方法が何のために作られ、何を成果としているのか。その前提まで見えなくなったとき、自分が本当に望んでいることとの境界が曖昧になることがあります。
正解を知ると、自分を測る基準が増えていく
正解には、もうひとつの側面があります。それを知ることで、自分自身を見る基準が増えることです。
知らなければ、ただ自分なりにやっていたことが、正解を知ったあとでは「できている」「できていない」に変わります。
文章の書き方を学べば、自分の文章を見る基準が増える。仕事の方法を学べば、自分の働き方を見る基準が増える。人との接し方を学べば、自分のコミュニケーションを見る基準が増える。
それによって改善できることは、たくさんあります。
一方で、外側にあった基準が、いつの間にか自分自身を評価する基準として内側に入り込むこともあります。
もっと効率よく。もっとわかりやすく。もっと成果が出るように。もっと正しく。
誰かに命令されているわけではありません。それでも、自分で自分を修正し続けることがあります。
そして、その基準をどこから受け取ったのかを意識しなくなった頃には、「私はこうしたい」と「こうするべきだ」の境界が見えにくくなることがあります。
マニュアルから抜け落ちるもの
マニュアルや方法論には、大きな価値があります。
過去の経験を共有し、失敗を減らし、誰かが一から同じことを学び直さなくてもよくする。知識を蓄積し、他者へ渡せることは、人間が持っている大きな力のひとつです。
ただ、多くの人が利用できる形へ知識を整理するとき、どうしても個別の事情は薄くなります。
誰が行うのか。何のために行うのか。誰と関わるのか。何を大切にしているのか。何を得たいのか。そして、何なら失ってもよく、何だけは失いたくないのか。
同じ方法であっても、こうした文脈が変われば、その人にとっての意味は変わります。
だから、マニュアルが悪いわけではありません。一般化された知識が間違っているわけでもありません。
問題があるとすれば、それを自分自身の文脈よりも上に置き、「正しい方法なのだから従うべきだ」と考え始めたときなのかもしれません。
知った上で、使わないという選択
方法を知らないことと、方法を知った上で使わないことは違います。
効果を知らずに選ばないのではなく、効果を理解した上で、それでも選ばない。あるいは、一部だけを使う。状況によって使い分ける。
そこには、自分で判断する余地があります。
私自身、ウェブサイトを運営している以上、これからも方法論を学ぶと思います。検索の仕組みも知りたい。文章についても学びたい。人がどのように情報を受け取り、判断するのかも知りたい。
知らないままでいたいわけではありません。むしろ、できるだけ知りたいと思っています。
ただ、知識をそのまま命令にはしたくありません。
「効果がある」と「自分もそれを使う」の間には、本来ひとつの判断があります。
何のための方法なのか。何を成果としているのか。その前提は、自分が大切にしているものと一致しているのか。
知識を増やすことと、その判断まで外部へ預けることは、同じではありません。
正解を知りながら、自分で選ぶ
正解を手放すということは、知識を捨てることではないのだと思います。
専門家を否定することでも、すべてを自分の感覚だけで決めることでもありません。
知る。理解する。必要なら使う。
その一方で、その知識が何を前提としているのかを見る。何のための方法なのかを見る。そして、それを自分の選択に使うのかどうかを、自分の側に残しておく。
そう考えると、問題は「正解が存在すること」そのものではないのかもしれません。
正解と呼ばれるものに触れたとき、自分の中で何が起きているのか。
それを知った瞬間、それまで持っていた判断を止めてはいないか。「そうした方がいい」という情報が、いつの間にか「そうしなければならない」という感覚に変わってはいないか。
そして、自分が当然だと思っている基準のうち、どこまでが自分自身で確かめ、納得して選んだもので、どこからが外側から受け取ったものなのか。
その境界は、簡単には見つからないのだと思います。
外から学んだものであっても、十分に考えた末に自分自身が選び取ったものもあるでしょう。反対に、自分で選んでいるつもりでも、いつの間にか当然の前提として受け入れているものもあるかもしれません。
だから必要なのは、外から来たものをすべて捨てることではなく、それがどこから来て、今、自分の中でどのように働いているのかを見ることなのだと思います。
正解を知ることと、正解に従うことの間には、選択があります。そのわずかな余地を残しておくことは、知識を持ちながら、自分自身で選び続けるために必要なことなのかもしれません。