
現実は創れる。だから創ろうとしなくなった|実験と観察からたどり着いた「ゆだねる」という結論
現実は、本当に変わるのでしょうか。
あるいは、「思考が現実を創る」という考え方は、単なる思い込みなのでしょうか。
私は長い年月をかけて、この問いを自分自身で検証してきました。
本を読み、人の話を聞いて納得したのではありません。
自分の人生そのものを実験の場とし、日常の出来事を観察し、その記録を積み重ねながら、少しずつ理解を深めてきました。
その過程では、説明のつかない偶然のような出来事にも数多く出会いました。
意識の状態が変わることで、人との出会い方が変わること。
同じ職場であっても、人との関係性や雰囲気がまるで別の世界のように変化すること。
内側の静けさが深まるにつれ、現実そのものの見え方まで変わっていくこと。
そうした体験を繰り返す中で、私の関心は「どうすれば現実を思い通りに変えられるのか」から、「現実とは何なのか」という問いへと移っていきました。
この記事は、その探究の過程で見えてきたことを、一人の観察者として記録したものです。
思考の現実化という実験のはじまり
私が「思考の現実化」という領域に興味を持ち始めた頃は、純粋な好奇心からの出発でした。
本当に意識は現実に影響するのだろうか。
もしそうなら、その仕組みはどのようなものなのだろうか。
そんな問いを抱きながら、小さな観察を日常の中で続けていました。
今でもよく覚えている出来事があります。
息子が小学校のお祭りで黄色い風船を持っていたときのことです。
私は、高校時代によく聴いていたある音楽を、ふと思い出し、頭の中で再生しました。
すると、その直後に風船が大きな音を立てて割れたのです。
もちろん、そのときは偶然だと思いました。
そこで新しい風船をいただき、同じように頭の中で音楽を再生してみました。
すると、再び風船が割れました。
この出来事だけで何かを断定するつもりはありません。
けれど、そのときの私は、「偶然」という一言だけでは片づけられない何かを感じました。
当時はすでに波動や周波数について書かれた本を読んでいましたので、「そういうことなのかもしれない」と理解したことを覚えています。
今振り返れば、この出来事そのものよりも、「本当にそうなのだろうか」と問い続けたことの方が重要だったように思います。
そこから私の観察は始まりました。
人生そのものを研究対象にしてみる
その後、私はさまざまなことを試しました。
音楽。
イメージ。
思考。
感情。
意識の向け方。
瞑想。
それらが現実とどのように関係しているのかを、生活の中で観察し続けました。
やがて、その探究は仕事という場にも及びます。
私は意識的に転職を繰り返しました。
それは待遇だけを求めたものではありません。
環境が変わることで、自分の意識状態と現実との関係を観察したかったからです。
ありがたいことに、高待遇で迎えていただく職場も少なくありませんでした。
その多くでは、中間管理職として、人をまとめ、組織を動かす役割を任されました。
しかし、その立場を経験する中で、私は一つの違和感を覚えるようになります。
組織を円滑に動かそうとするほど、支える側と支えられる側、管理する側と管理される側という構造が強くなっていく。
もちろん、組織運営には役割分担が必要です。
けれど、その構造の中で、人と人との関係が知らず知らずのうちに支配や依存へ傾いていく場面も見えてきました。
私は、その世界を否定したかったわけではありません。
ただ、自分自身はその構造を強化する役割を担い続けたいとは思えなかったのです。
そのため、どれほど条件が良くても、違和感が深まれば静かにその場を離れました。
そして、新たな環境でまた観察を続けました。
今振り返れば、転職そのものが目的だったのではありません。
環境が変わるたびに、自分自身の認識や意識状態、そして現実との関係がどのように変化するのかを見続けていたのです。
繰り返しの観察から見えてきたこと
何年も観察を続ける中で、私の中にはいくつかの共通点が浮かび上がってきました。
同じ場所にいても、自分の意識状態が変わると、人との関係性がまるで別のものになります。
以前なら衝突していた相手と自然に会話ができることもあれば、反対に、以前は気にならなかった言葉が強く心に響くこともあります。
さらに不思議だったのは、人そのものが変わったように感じられる場面が少なくなかったことです。
もちろん、相手そのものが突然別人になったわけではありません。
しかし、自分がどの意識状態にいるかによって、その人の表情や言葉、現れる側面が驚くほど変わることがありました。
また、ある状態の自分でいるときには、似たような出来事や似たような人との出会いが続くことにも気づきました。
当時の私は、それを「周波数」という言葉で理解していました。
現在では、もう少し広い意味で「意識状態」と捉えています。
重要なのは名称ではありません。
自分がどのような存在状態で世界と関わっているのか。
その違いによって、体験する現実の質が変わっていくということです。
その理解が深まるにつれ、私の中で現実というものの重さが少しずつ変わり始めました。
現実は「遊び」へと姿を変えていった
自分の意識状態と現実との関係を観察し続けていると、不思議な変化が起こりました。
以前の私は、「良いことが起きた」「悪いことが起きた」という出来事に一喜一憂していました。
偶然の幸運に喜び、思い通りにならない出来事に落ち込み、そのたびに現実へ振り回されていたのです。
しかし、観察を続けるうちに、その見え方は少しずつ変わっていきました。
出来事そのものよりも、「なぜ今、この出来事が目の前に現れたのだろう」という問いの方が大きくなっていったのです。
すると、現実は単なる偶然の連続ではなく、自分自身を映し出す鏡のようにも感じられるようになりました。
もちろん、何もかもを自分一人が創り出していると言いたいわけではありません。
他者もいます。
社会もあります。
時代の流れもあります。
それでも、その中で自分が何を体験し、どのような意味として受け取るのかには、自分自身の認識が深く関わっていることを実感するようになりました。
その頃から、私にとって現実は「重たいもの」ではなくなっていきました。
真剣ではあるけれど、深刻ではない。
人生は、巨大な試験ではなく、一つの壮大な学びであり、遊びであり、踊りのようなものなのではないか。
そんな感覚が、少しずつ育っていったのです。
認識が変わると、世界の見え方も変わる
長く観察を続ける中で、一つ強く感じるようになったことがあります。
現実を変えているのは、出来事そのものではないということです。
思考。
感情。
イメージ。
それらが動いた瞬間、心の奥ではわずかな変化が起こっています。
そして、その微細な変化に応じるように、目の前の世界も少しずつ姿を変えていくように感じられるのです。
あるテーマについて考え始めると、それに関する本と偶然出会う。
同じことを考えている人と出会う。
必要な情報が、不思議なほど自然な形で集まり始める。
こうした出来事は、一度だけなら偶然と言えるでしょう。
しかし、それを何年も観察し続けていると、「認識が世界との関係を変えている」という感覚は、私の中で次第に確かなものになっていきました。
とはいえ、ここで注意したいことがあります。
こうした現象に気づき始めると、人は「では思考を変えれば、何でも思い通りになるのではないか」と考えやすくなります。
私自身も、その段階を通ってきました。
そして、その先で一つの壁にぶつかります。
現実を変えようとするほど、違和感が生まれる
意識を使えば現実を変えられる。
そう感じ始めた頃、私は意図的に現実を動かそうとすることもありました。
より良い未来を思い描く。
望ましい状態をイメージする。
流れを変えようとする。
そうした実践を続ける中で、確かに現実が応答しているように感じる場面もありました。
しかし、その一方で、言葉では説明しにくい小さな違和感が心の奥に残るようになりました。
外側では望んだ結果が起きている。
それなのに、どこかが静かではない。
何かを無理に動かしているような感覚が残るのです。
その違和感は、一度きりではありませんでした。
何度も同じ場所へ戻ってきました。
そのたびに私は、自分へ問いかけました。
「私は、本当に現実を創りたいのだろうか。」
それとも、
「現実を支配したいだけなのだろうか。」
この問いは、私自身の探究を大きく変えることになります。
再現しようとした瞬間、本質から離れていく
この記事を読まれている方の中には、
「同じことを試してみたい。」
そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。
けれど、この領域には一つ、不思議な性質があります。
再現しようとした瞬間に、本質から少しずつ離れていくのです。
なぜなら、その時点で意識は「体験すること」から、「結果を得ること」へ移っているからです。
操作したい。
成功したい。
証明したい。
その意図が強くなるほど、自我が前面へ出てきます。
すると、本来は自然だった流れに、少しずつ力みが入り始めます。
私自身、この段階を何度も経験しました。
そして、ようやく気づいたのです。
「現実創造」は、自我が習得する技術ではない。
むしろ、自我が静かになっていく過程なのだ、と。
力を持とうとする自我の危うさ
この探究には、もう一つ気をつけなければならないことがあります。
現実を動かせるという感覚は、ときに人へ強い万能感を与えます。
もっと自由になりたい。
もっと思い通りにしたい。
もっと完全に現実を支配したい。
こうした思いは、一見すると向上心のようにも見えます。
しかし、その奥には「恐れ」が隠れていることがあります。
未来を失いたくない。
失敗したくない。
思い通りでなければ安心できない。
そうした恐れが、現実をコントロールしようとする欲求へ姿を変えることがあります。
私自身も、この誘惑を経験しました。
その結果として現れたのは、大きな失敗ではありません。
もっと静かなものでした。
理由の分からない疲労。
人との間に生まれるわずかな不協和音。
成功しているようで、どこか満たされない感覚。
それらは、「そちらではない」という、小さなサインだったのかもしれません。
最後に残ったのは、「ゆだねる」という在り方だった
長い観察と実践を経て、私がたどり着いた結論は、とても逆説的なものでした。
現実は、確かに応答します。
意識は、現実と深く関わっています。
しかし、そのことを理解すればするほど、現実を操作したいという気持ちは静かに薄れていきました。
残ったのは、
「ゆだねる」
という、とてもシンプルな在り方です。
もちろん、何もしないという意味ではありません。
目の前のことを丁寧に行う。
必要なら内観する。
自分の思い込みや恐れに気づく。
自分自身を整える。
そうしたことは続けます。
けれど、その先の結果については、無理に握り締めようとはしません。
仕組みを知らなかった頃の「ゆだねる」と、
仕組みを観察した後の「ゆだねる」は、
同じ言葉でもまったく意味が違います。
後者には、理解の先にある静かな信頼があります。
自由とは、現実を支配することではない
この探究を始めた頃の私は、自由とは「現実を自在に変えられること」だと思っていました。
しかし、最後に見えてきた自由は、それとは違うものでした。
本当の自由とは、
現実を思い通りに動かす能力ではありません。
思い通りにしなければならないという自我から自由になることです。
恐れから自由になることです。
結果へ執着する心から自由になることです。
そして、自分の本質は、もともとその自由の中に在ったことに気づくことです。
霊が先で、この世界は霊が体験する場です。
そうであるなら、この人生は、何かを必死に勝ち取るためだけの旅ではありません。
現実という豊かな体験を通して、自分自身を知り、他者と出会い、世界と関わりながら、本来の在り方を思い出していく旅なのです。
私にとって「思考の現実化」という探究は、現実を創る方法を学ぶためのものではありませんでした。
現実を創ろうとする自分を、少しずつ手放していく旅だったのです。
その旅の果てに残ったものは、新しい力ではありません。
「もともと自由であった。」
その静かな事実だけでした。