
「気づき」のお稽古 「思考の現実化」実験と実践と結論
思考の現実化という実験のはじまり
「思考の現実化」という言葉が、どこか甘美な響きを持って語られることがあります。
しかし私は、この言葉の裏側にある真実を探るべく、長い期間にわたって自らの人生を実験台とし、検証を重ねてきました。
この記事では、その過程で実際に起きた現象と、そこから見えてきた“ズレ”と“危うさ”、そして最終的に辿り着いた結論について記します。
※仕組みや構造については別記事でも触れていますので、本記事では体験と実感に焦点を当てます。
はじめのころは、音楽を脳内再生することからはじめたことを思い出します。
息子の小学校のお祭り行事のときのこと。
ふと思い出した、高校生の頃によく聞いていた曲を脳内再生すると、息子が持っていた黄色の風船がパンッと割れてしまいました。
もちろんその時は偶然だと思いました。
そこでもう一度風船をいただいて、同じように音楽の脳内再生を行なうと、やっぱり息子が持っていた風船が割れてしまいました。
はじめは驚きましたが、すでにそれなりに情報を収集していましたので、「周波数の関係だろう」と、なんとなくその時は理解しました。
現実は変わるのかという検証の日々
その後、私はさまざまな音楽を試したり、イメージをすることで、現実を変更することができるということに気づきました。
その検証は、生活の基盤である「仕事」という場にまで及びます。
現実化の実験のために、私はあえて転職を繰り返してみました。
ありがたいことに、高待遇で働かせていただいた職場が多かったのですが、その多くは中間管理職として周囲の人に対してリーダーシップを発揮しなければならない役割でした。
しかし、そこで私が感じたのは、支配・依存関係という二元性の世界を強化してしまう危うさです。
そのような世界を創ることを避けるために、私はどれほど好条件であっても、短期間で潔く身を引いていきました。
さらに転職を重ね、とある自由度の高い職場に辿り着きました。
そこで、私の実験はさらなる核心へと迫っていきました。
繰り返しの中で見えてきた3つの理解
そのような試行錯誤を繰り返した結果、現在私が理解している重要なことは、以下の3点に集約されます。
- 同じ場所、同じ人間関係であっても、自分を含むすべての人の人柄が変換される
- 周波数Aであらわれる人、周波数Bであらわれる人、、、などがわかるようになり、自分で変更した周波数によって、その日に出会う人が予測できる
- 周波数ごとに、ある程度起きる現象や物事に対する心の姿勢が決まっている
このことが体験として、細胞レベルでしっかり理解できてからは、私にとっての「現実」とは、かつての重々しさを脱ぎ捨て、軽やかな「お遊戯」や「ダンス」のようなものへと変容していきました。
現実は「遊び」へと変わっていった
自分自身が現実を創っていることを、十分に理解し、体現できるようになると、不思議な現象が起こりました。
何もわからずに「良いことが起きた」と喜んだり、「嫌な目に遭った」と肩を落としたりすることがほとんどなくなってしまったのです。
以前のように、ラッキーやアンラッキーに対して「一喜一憂する楽しみ」の多くは、静かに消失していきました。
それは寂しさではなく、世界の構造を理解したことによる静寂です。
現実の見え方は、認識の深度によって想像以上に変化するものだと、今さらながら実感しています。
認識が生み出す世界の正体
ここで、いくつかの微細な気づきをお伝えします。
思考すること、意識すること、イメージすること。
それらを行なうと同時に、私たちの「心」が微かに動いたとき、放つ波動が変化し、外界という名のスクリーンではすでに改変・創造が行なわれています。
それは一瞬の出来事であるため、中々気づけませんが、まるで「最初からそうであったかのように」感じたり、次の瞬間には、同じようなことを感じている人のお話を聴いたり、共鳴する文章に出会ったりするなどの出来事が連鎖的に起こります。
これらすべては、私たち人間の「認識する」という能力が作り出す精巧な幻想であり、ある意味では心の罠となっている場合があるのかもしれません。
内側が外側に広がっているという感覚。
その「意識の向け方」を丁寧にお稽古していくための、一つの道標になれば幸いです。
たどり着いた結論 ゆだねるという選択
上記のような実践を繰り返す中で、私はある矛盾に直面しました。
意図的に現実を動かそうとすればするほど、魂のどこかに小さな違和感が残るようになったのです。
その違和感が幾層にも積み重なった結果として、現在の私は「ゆだねる」という在り方に着地しています。
仕組みを知る以前の「ゆだねる」と、仕組みを理解し尽くした後の「自然の流れに身をゆだねる」とでは、人生観や感覚が大きく異なります。
私を含む誰もが、人生において散々学習し、苦労し、さまざまなことに一喜一憂してきたことでしょう。
それもまた、この次元での素晴らしい体験の彩りです。
思い至った、私なりの現時点での結論は以下の通りです。
(これ以上の深淵があるのかもしれませんが、今の私にはまだわかりません)
基本は波動を下げることを回避して、意識をそこから逸らすこと。
自分のハートにとって心地の良いことを選び、意識を「よいこと」へ向け、波動を上げていく。
そして、目の前の自分事——いま、ここ、この瞬間にただ集中していれば、それで良いのです。
また、必要に応じて内観し、自らの心を見つめる時間を持ちます。
自分を無意識に制限してきた観念や刷り込み、思い込みに気づき、それを解除すれば、さらにより良い現実が、向こうから創られていきます。
再現しようとするほどズレていく理由
ここまでの内容を読まれて、「自分も同じように、意識の力で現実を動かしてみたい」と感じた方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、この領域には、回避することのできない一つの大切な前提があります。
それは、「再現しようとした瞬間に、本質的なズレが生じる」ということです。
なぜなら、意識の状態が「純粋な体験そのもの」ではなく、「何らかの結果を得るための操作」へと変質してしまうからです。
私自身も、ある時期までは意図的に現実を変えようとする試行を繰り返していました。
しかしその過程で気づいたのは、意識を「使おう」とした瞬間に、そこには自我の力みやコントロールの意図が入り込み、かえって本来の流れを歪めてしまうということでした。
つまり、「同じようなことをやろう」とすること自体が、すでに本来の調和から外れる一歩となっているのです。
意識の操作が生む歪みと危うさ
さらに深くその内幕を見ていくと、もう一つの側面が浮かび上がります。
それは、「意識を使って現実を操作する」という全能感に似た感覚が強くなりすぎると、自我がその手綱を握ろうと躍起になるという点です。
- もっと良い現実を創り上げたい
- もっと完全にコントロールしたい
- もっとすべてを思い通りにしたい
こうした欲求が肥大化すればするほど、現実はむしろ重苦しく、複雑な迷路へと変わっていきます。
私自身も、この領域に踏み込んだ初期の頃には、現実を変えられるという感覚に引き込まれ、どこかで世界を「操ろう」としていた時期がありました。
その報いとして現れたのは、言語化しがたい心の疲労感や、拭いきれない違和感、そして人間関係に生じる微かな不協和音といった、静かな歪みでした。
これは、表面的には物事が成功しているように見えても、内側の根源的な調和が崩れ始めているという警告でもあります。
なぜ最後は「ゆだねる」に戻るのか
こうした幾多の経験を経て、私の中で一つの確固たる理解に至りました。
それは、 「現実は創れるが、創ろうとしない方が、より高次元で調和する」 という、一見すると矛盾に満ちた感覚です。
意識の力を理解すればするほど、その力を振るう「操作」という方向ではなく、より大きな知性へと「委ねる」という方向に戻っていく。
それは諦めや逃避ではなく、生命そのもの、あるいはより大きな宇宙の流れへの深い信頼です。
自ら操作しようとするほどに現実とのズレが生じ、逆に執着を手放して「何もしない」という状態に留まるとき、現実は最も自然に、そして最善の形へと動いていく感覚がありました。
自由とは、もともと在ったものに気づくこと
この領域は、言葉としての知識で理解することはできますが、本質的には日々の体験と実践の中でしか、真の意味で腑に落ちてはいきません。
そして、その地道なお稽古の先にあるのは、「より大きな力を得て自由になること」ではないのです。
それは、 「もともと自分は自由であったことに、改めて気づくこと」。
その静かな帰還こそが、長い旅の果てに見つけた結論なのだと、今は感じています。