Structure & Society

構造の理解・前提の描写

私たちは、いつから「役に立つ人」になろうとしたのか|機能が「好き」を覆い隠す社会

何かを始めようとするとき、私たちはいつの間にか、その意味を説明しようとします。

それは将来、何につながるのか。

どのような成果を生むのか。

仕事になるのか。

誰かの役に立つのか。

そうした問いは、とても自然なものに見えます。

社会の中で生きる以上、自分の行動が何をもたらすのかを考えることは必要です。

けれど、あらゆる時間や選択に意味を求めるうちに、理由のない「好き」は、少しずつ居場所を失っていきます。

役に立つこと。

成長につながること。

人に評価されること。

それらを優先し続けるうちに、自分が本当は何に惹かれていたのか、わからなくなることがあります。

私たちは、いつから「役に立つ人」でなければならないと思うようになったのでしょうか。

 

自分を測る物差しになった「機能」

機能とは、あるものが何をするのか、どのような役割を果たすのかを示す言葉です。

道具にも、制度にも、組織にも機能があります。

社会を成り立たせるために、機能は欠かせません。

問題は、機能が必要であることではありません。

人間そのものまで、機能によって測られるようになることです。

仕事ができる。

成果を出せる。

知識がある。

人を支えられる。

収入を得られる。

社会の中では、こうした能力が評価されます。

それ自体は不自然なことではありません。

しかし、その評価が自分の内側へ入り込み始めると、役割を果たせない自分には価値がないように感じることがあります。

休んでいる自分。

迷っている自分。

何も生み出していない自分。

誰かの期待に応えられない自分。

そうした自分を、そのままでは認めにくくなるのです。

社会から評価されるための物差しが、いつしか自分の存在価値を測る物差しに変わっていきます。

 

役に立つことを求める、不安の正体

「この時間に意味はあるのか。」

「もっと有益なことをした方がよいのではないか。」

「今の自分は、何かを生み出せているだろうか。」

こうした問いのすべてが悪いわけではありません。

自分を律し、生活を整え、社会へ参加するために必要なこともあります。

けれど、その奥に、別の感情が隠れていることがあります。

役に立たなければ、必要とされないのではないか。

成果を出さなければ、置いていかれるのではないか。

何かを与え続けなければ、自分の居場所を失うのではないか。

役に立とうとする力は、誠実さから生まれることもあれば、不安から生まれることもあります。

外から見れば同じ努力に見えても、その内側ではまったく異なる動きが起きています。

自分の内側から自然に動いているのか。

価値を証明するために動き続けているのか。

その違いは、成果の大きさだけでは見分けられません。

むしろ、立ち止まったときに何を感じるかによって、初めて見えてくることがあります。

何もしない時間に、深い焦りを感じる。

休んでいるだけなのに、罪悪感が生まれる。

好きなことをしていても、「こんなことをしていてよいのか」と考えてしまう。

その感覚は、機能を果たしている自分と、自分の存在そのものを、強く結びつけていることを知らせています。

 

「好き」にまで説明を求めてしまう

かつての私も、あらゆる選択に機能的な正当性を求めていました。

何かを学ぶなら、仕事につながるもの。

時間を使うなら、成長につながるもの。

物を持つなら、実用性のあるもの。

無駄を減らし、目的に沿って行動することが、賢明な生き方だと考えていたのです。

その考え方によって、整った部分もありました。

必要のないものを減らし、目的へ集中できるようにもなりました。

けれど、すべてを機能で選ぶようになると、生活から少しずつ余白が消えていきます。

好きだから触れる。

なぜか気になるから近づく。

何の役に立つかわからないまま、時間を使う。

そうした選択が、どこか未熟で、非効率なものに見えるようになるからです。

「それが好きです」と言ったあとに、すぐ理由を付け加えたくなることがあります。

知識が身につくから。

人間関係に役立つから。

仕事に応用できるから。

心身によいから。

好きであることだけでは、選ぶ理由として足りないように感じてしまうのです。

けれど、「好き」はいつも、わかりやすい意味を持って現れるわけではありません。

説明できる前に惹かれることがあります。

役に立つかどうかわからないまま、心が向かうことがあります。

その感覚をすぐに社会的な意味へ翻訳してしまうと、自分が最初に何を感じていたのかが見えにくくなります。

 

外側の物差しは、わかりやすく、使いやすい

機能は、比較できます。

数字に置き換えることができます。

成果、効率、収入、資格、実績、時間。

それらは、異なる人や行動を同じ基準で測るために役立ちます。

一方で、「好き」という感覚は比較しにくいものです。

なぜそれが好きなのか、自分でもうまく説明できないことがあります。

同じものを見ても、誰もが同じように感じるわけではありません。

だから社会の中では、機能の方が扱いやすくなります。

何が優れているのか。

何が劣っているのか。

何を選ぶべきなのか。

基準があれば、迷わずに済みます。

けれど、外側の基準へ判断を委ね続けていると、自分の感覚を使う機会は減っていきます。

人気があるから選ぶ。

評価が高いから選ぶ。

将来性があるから選ぶ。

専門家が勧めているから選ぶ。

そうした選択を重ねるうちに、「私はどう感じるのか」という問いが、後ろへ退いていきます。

外側の物差しは、間違いを避けるためには便利です。

しかし、正しい選択を続けることと、自分の人生を生きている感覚があることは、必ずしも同じではありません。

 

役割と自分自身が重なっていく

人は、社会の中でいくつもの役割を担っています。

働く人。

親。

子ども。

経営者。

管理者。

支える人。

教える人。

役割があるからこそ、他者と関わり、社会の中に自分の場所を持つことができます。

しかし、役割を果たすことに慣れすぎると、その役割と自分自身の境界がわからなくなることがあります。

人を支えられない自分には価値がない。

成果を出せない自分は、自分ではない。

誰かに求められなくなったら、存在する意味がなくなる。

そのとき、人は役割を生きているのではなく、役割に自分を預けています。

自分という存在が、社会の中で果たす機能へと縮小されているのです。

もちろん、役割を捨てればよいわけではありません。

責任を放棄すれば自由になれるわけでもありません。

ただ、役割は自分のすべてではない。

そのことを忘れないための余白が必要なのだと思います。

役に立つ私も、自分です。

何も生み出していない私も、自分です。

その両方が認められなければ、役割は次第に檻へと変わっていきます。

 

「もう良いんじゃない?」と立ち止まる

構造を見る目的は、社会を否定することではありません。

効率や成果を手放し、好きなことだけをして生きるべきだと主張することでもありません。

大切なのは、自分がどの基準によって動いているのかを見えるようにすることです。

役に立たなければならない。

成長し続けなければならない。

何かを生み出さなければならない。

その前提が自分の中にあると気づいたとき、初めて、前提と自分との間に距離が生まれます。

そこで、ふと浮かぶ言葉があります。

「もう良いんじゃない?」

それは、すべてを投げ出す言葉ではありません。

努力を否定する言葉でもありません。

正しさを追い続けるために張りつめていた力を、少しだけ緩める言葉です。

ここまで役に立とうとしてきた。

ここまで意味をつくろうとしてきた。

ここまで自分を証明しようとしてきた。

そのことを認めたうえで、機能とは別の場所にいる自分へ戻っていく。

「もう良いんじゃない?」という言葉には、そのための静かな転換があります。

 

理由のない「好き」が残しているもの

役に立つかどうかという基準を、完全に消すことはできません。

社会の中で生きる限り、機能はこれからも必要です。

ただ、その基準を一度だけ透明にしてみることはできます。

役に立つからではなく、好きだから選ぶ。

将来につながるからではなく、今そこに惹かれるから近づく。

誰かに説明できるからではなく、自分の中に確かな感覚があるから大切にする。

そうした選択は、ときに不揃いで、非効率に見えます。

けれど、その不揃いさの中に、自分がまだ機能だけにはなっていないことを知らせる手触りがあります。

好きなものが、必ずしも人生の答えを教えてくれるわけではありません。

何かの使命につながるとも限りません。

ただ、理由を与える前の自分が、何に心を動かしていたのかを思い出させてくれます。

それは小さなことのようでいて、自分の人生の主権と深く関わっています。

 

おわりに

私たちは、社会の中で機能しながら生きています。

誰かの役に立ち、仕事を担い、責任を果たす。

それは、人間が社会へ参加する大切な形です。

けれど、人間という存在は、果たしている機能だけでできているわけではありません。

何も生み出していない時間。

理由もなく惹かれるもの。

説明できない違和感。

誰にも見せていない喜び。

そうしたものもまた、自分の人生を形づくっています。

「役に立つか」という問いを持つことは必要です。

ただ、それが唯一の問いになると、「私は何が好きなのか」という感覚は、少しずつ聞こえなくなっていきます。

自分は今、何かを本当に望んでいるのか。

それとも、役に立つ自分であり続けようとしているだけなのか。

その違いは、外側からは見えません。

だからこそ、ときどき自分の中へ問いを戻す必要があります。

もし、何の役にも立たなくても。

誰にも評価されなくても。

理由を説明できなくても。

それでもなお、自分の中に残っているものは何でしょうか。

その感覚は、機能の物差しだけでは測ることのできない、自分という存在の輪郭を、静かに教えてくれるのだと思います。

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