
望む人生が実らないのは、なぜなのか 「果実」ではなく「木」を見つめるという視点
私たちは人生の中で、多くのものを求めています。
幸せになりたい。
穏やかに生きたい。
良い人間関係を築きたい。
自分らしく生きたい。
そうした願いは、人生という木に実る「果実」のようなものです。
しかし、望む果実が手に入らないとき、私たちは果実ばかりを見てしまいます。
もっと努力しよう。
もっと頑張ろう。
もっと方法を探そう。
けれど、本当に見つめるべきものは、果実ではないのかもしれません。
その果実を実らせている「木」そのものです。
果実は、突然生まれるものではない
一本の木には、その木らしい実がなります。
りんごの木には、りんごが。
柿の木には、柿が。
それは当たり前のことです。
人生も、どこか似ています。
私たちが日々経験している出来事。
繰り返される人間関係。
何度も出会う悩み。
そうしたものは偶然だけで生まれているのではなく、自分の内側にある認識や価値観、信念という「木」から実っていることがあります。
果実だけを変えようとしても、木が同じであれば、また似た実をつける可能性があります。
人は、果実ばかりを変えようとする
人生が思うようにいかないとき、多くの人は外側を変えようとします。
仕事を変える。
環境を変える。
人間関係を変える。
もちろん、それが必要な場合もあります。
しかし、どこへ行っても同じような苦しさを繰り返すなら、見直すべきものは別の場所にあるかもしれません。
「私はどんな木を育てているのだろう。」
その問いが、人間理解の始まりになります。
木とは、認識の積み重ねである
ここでいう木とは、才能や性格ではありません。
世界をどのように見ているかです。
努力しなければ価値はない。
人は信用できない。
失敗してはいけない。
認められなければ意味がない。
こうした認識は、一日で生まれたものではありません。
家庭。
学校。
社会。
人生経験。
その積み重ねによって、少しずつ育ってきたものです。
そして、その木から毎日の選択が生まれ、人生という果実が実っていきます。
知ることと、生きることは違う
新しい考え方を知ることは、大切です。
本を読む。
学ぶ。
気づきを得る。
そのすべてに意味があります。
しかし、知識だけでは木は変わりません。
「なるほど」と思っても、気づけば以前と同じ考え方へ戻っていることがあります。
それは意志が弱いからではありません。
長い年月をかけて育った木は、それほど簡単には変わらないからです。
だから、本当に変化が起きるのは、知識が認識へ変わり、認識が日々の在り方へ変わっていくときです。
源を見るということ
果実を変えたいなら、木を見る。
木を変えたいなら、さらに深く見つめる場所があります。
それが源です。
なぜ、自分はそう考えるのだろう。
なぜ、この出来事にこんな反応をするのだろう。
なぜ、同じことを繰り返すのだろう。
その問いを静かに辿っていくと、自分でも忘れていた認識の源へたどり着くことがあります。
源とは、原因探しではありません。
自分という存在を理解していく営みです。
木が変わると、人生は静かに変わり始める
認識が少し変わる。
すると、選択が変わります。
選択が変わると、行動が変わります。
行動が変わると、人との関わり方が変わります。
そして、やがて人生に実る果実も少しずつ変わっていきます。
その変化は劇的ではありません。
春になったからといって、一日で木が育つことはありません。
けれど、根が変われば、季節を重ねるごとに実る果実も変わっていきます。
望む人生は、源から育っていく
私たちは、目の前の出来事を変えようと努力します。
それも大切なことです。
しかし、ときには立ち止まり、自分へ問いかけてみることも必要です。
「私は、どんな木を育てているのだろう。」
その問いは、自分を責めるためのものではありません。
より深く自分を理解するための問いです。
人生は、実った果実だけで決まるものではありません。
どのような木を育て、どのような源から生きているのか。
そこに目を向け始めたとき、人は外側の結果だけに振り回される生き方から少しずつ離れていきます。
望む人生は、未来のどこかにある果実ではありません。
今日という一日の中で、自分が育て続けている「木」から、静かに育ち始めているのです。