
「正解」という重荷を、玄関に置いたまま歩き出す
玄関の扉を開ける前、ふと、自分の肩が不自然に強張っていることに気づくことがあります。
今日という一日を、過不足なく過ごさなければならない。
誰に対しても、自分に対しても、「正しい」答えを差し出さなければならない。
そんな、いつの間にか背負い込んでいた無垢な重荷が、足取りを鈍くさせていたのかもしれません。
いつからこんなにも「正解」を求めるようになったのでしょうか。
効率よく歩くこと、最短距離で答えに辿り着くこと。
そのための地図を握りしめているうちに、手のひらは汗ばみ、足元の柔らかな土の感触や、頬を撫でる風の温度を忘れてしまいます。
「正解」という重たい外套を、玄関の隅にそっと置いてみる。
一歩、外へ踏み出した瞬間に感じる、身体の軽さ。
それは、何者でもない自分に戻っていくための、ひそやかな儀式のようです。
地図を持たずに歩き出せば、道に迷うこともあるでしょう。
けれど、迷うからこそ出会える景色があります。
予定していた角を曲がらず、ただ「あちらの光が綺麗だから」という理由だけで足を進めてみる。
そこには、論理や計画では決して辿り着けない、自分だけの「今」という粒子が舞っています。
「わからない」という状態は、決して不足ではありません。
それは、これから何かが入り込んでくるための、豊かな「余白」です。
誰かに説明できる言葉を持たず、ただ、目の前の光景をあるがままに受け入れる。
正解を出すことを手放したとき、世界はふたたび、名づけようのない瑞々しさを取り戻します。
完璧な一日ではなく、 ただ、自分の魂が呼吸しやすい一日を。
玄関に置いてきた重荷は、夕暮れに戻る頃には、もう必要のないものに変わっているかもしれません。
軽くなった肩で、ただ、風のゆくえを追いかけてみる。
そんな、答えのない歩みのなかにこそ、 私たちが本当に求めていた「自由」が宿っているような気がしています。