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人類は、人間についてどこまでわかっているのか|自己・意識・Human Nature、その「地図の端」へ

人間について調べていけば、どこまで行けるのでしょう。

社会の中で生きることで、人間の内側にはさまざまなものが形成されていきます。制度、教育、労働、文化、価値観、他者との関係。それらは人間の外側に存在しているだけではなく、やがて「自分はこういう人間だ」「こう生きるべきだ」「これは正しい」「これは間違っている」といった、自分自身や世界を見るための認識にもなっていきます。

では、それらを一つずつ見ていった先には、何があるのでしょうか。

思考があります。感情があります。記憶があります。身体感覚があります。自分について語っている物語があります。そして、それらすべてが経験されているという事実があります。

社会によって形成される自己については、社会学や心理学に長い研究の蓄積があります。身体と自己経験については、現象学や認知科学、神経科学から考えられてきました。意識についても、現在まで非常に多くの研究と哲学的議論があります。

さらに範囲を広げれば、自己とは何か、精神とは何か、主体とは何か、魂とは何かという問題は、二千年以上にわたって考えられてきました。

人類は、人間について想像していた以上に遠くまで考えています。

しかし、その地図は最後まで一つにつながっているわけではありません。

ある地点までは、観察や実験、概念の整理によってかなり精密に進むことができます。ところが、その先では複数の説明が分かれ始め、さらに進むと、何を世界の根本に置くのかという存在論そのものが問題になります。

今回は、人類がすでに歩いてきたその地図を、できるだけ端まで辿ってみます。

 

社会によって形成される「自分」は、かなり研究されている

まず、私たちが「自分」だと思っているもののすべてが、生まれたときから現在と同じ形で存在していたわけではないということについては、さまざまな学問に長い研究の蓄積があります。

家庭でどのように扱われたのか。学校で何を求められたのか。社会では何が評価されるのか。どのような文化と言語の中で育ったのか。他者からどのように見られ、自分自身をどのように理解するようになったのか。

こうした経験は、価値観や信念だけではなく、自分についての理解にも関係します。社会学では社会化、規範、役割、社会と自己との関係が論じられ、心理学や社会心理学では自己概念、アイデンティティ、信念、認知などについて膨大な研究があります。

つまり、社会や経験によって人間の内面に何かが形成されていくというところは、まったくの未知ではありません。

むしろ問題は、その先にあります。

形成されたものがあるのなら、私たちが日常的に一つの「自分」と呼んでいるものの中には、異なる成り立ちを持つものが混在していることになるからです。

 

「自己」は、一枚ではなかった

自己について調べていくと、「self」という一つの言葉で呼ばれているものの中にも、複数の側面があることが見えてきます。

他者や社会との関係の中で形成される社会的な自己があります。自分の過去をつなぎ、「私はこういう人生を生きてきた人間だ」と理解する物語的な自己があります。身体が自分のものであるという感覚や、自分が行為を起こしているという感覚も、自己経験に関係しています。

そして現象学や自己研究では、さらに反省以前の自己性が問題になります。

たとえば音楽を聴いているとき、私たちは「私はいま音楽を聴いている」と考えてから音を経験しているわけではありません。考えるより前に、音はすでに「私に聞こえている」ものとして現れています。

悲しみも同じです。「私は悲しい」と自分の状態を説明する前から、悲しみはすでに経験されています。

このような、自己について考えたり物語ったりする以前から経験に伴っている一人称性は、現象学では前反省的自己意識などの問題として論じられてきました。

人類は、「自分」を一枚の固定した実体としてだけ見るところから、かなり先まで進んでいます。

社会的な自己、物語としての自己、身体に関わる自己経験、そして経験そのものに伴う一人称性。それらを区別することで、「自分だと思っているもの」の内部にも構造があることが見えてきます。

 

身体を通して経験するということ

ここからさらに進むと、身体を無視することもできません。

ただし、ここでは二つのことを分ける必要があります。

人間という存在そのものを身体へ還元することと、人間として経験することに身体が深く関わっていることは、同じではありません。

痛み、疲労、空腹、呼吸、緊張、快、不快。身体の状態が変われば、同じ出来事であっても世界の感じ方が変わることがあります。身体所有感や、自分が行為を起こしているという感覚、身体内部から生じる感覚なども、自己経験と深く関係しています。

メルロ=ポンティの現象学や身体性を重視する認知科学などでは、身体は単なる外側の物体ではなく、世界が私たちにどのように現れるのかに深く関わるものとして考えられてきました。

存在そのものが身体に還元されないことと、この世界での経験が身体を通して成立していることは両立します。

スピリットが身体を通してこの世界を経験しているという基点に立つ場合にも、身体は単なる入れ物ではありません。身体を持つからこそ生じる制約や感覚があり、それ自体が人間としての経験を構成しています。

 

それでも、「経験されている」という問題が残る

自己の形成や身体との関係を見ていくと、やがて問いは意識へ近づいていきます。

思考があります。感情があります。記憶があります。身体感覚があります。外界からは視覚や聴覚などの情報が入ってきます。

しかし、それらについてもう一つ不思議なことがあります。

それらは、経験されています。

赤いものを見るとき、視覚系では光に関する情報処理が起こっています。しかし同時に、「赤く見える」という経験があります。身体を傷つければ神経系ではさまざまな活動が起こりますが、それだけではなく「痛い」という経験があります。

脳や身体の中で情報処理が行われることと、その情報処理に「何かである感じ」が伴っていることは、どのような関係にあるのでしょう。

ここから、現代の意識研究が扱っている大きな問題へ入っていきます。

 

脳と意識の関係は、かなり調べられている

科学が意識について何もわかっていないわけではありません。

神経科学では、意識のある状態とない状態の違いや、特定の知覚経験とどのような神経活動が関係しているのかなどについて研究が進められています。

意識を説明する理論としても、グローバル・ニューロナル・ワークスペース理論、統合情報理論、高次表象理論、再帰処理理論など、複数のモデルが提案されています。

2025年には、グローバル・ニューロナル・ワークスペース理論と統合情報理論について、双方があらかじめ予測を明示したうえで同じ実験によって比較する大規模な敵対的協働の結果が『Nature』に発表されました。256人を対象に、fMRI、MEG、頭蓋内脳波などを用いて検証した研究では、それぞれの理論と整合する結果が得られる一方、双方の重要な予測に反する結果も示されています。

つまり、意識研究は「脳のどこかに意識があるのだろう」という漠然とした段階ではありません。具体的な理論があり、それぞれ異なる予測を立て、実験によって競い合うところまで進んでいます。

それでも、どの理論が意識を包括的に説明するのかについて、統一的な合意には至っていません。

 

最初の「地図の端」は、主観的経験にある

脳活動と意識経験との対応をどれほど精密に調べても、そこからさらに一つの問いが現れます。

なぜ、その物理的な活動に経験が伴うのでしょうか。

光に関する情報がどのように処理されるのかを説明することと、「赤く見える」という経験がなぜ存在するのかを説明することは、同じなのでしょうか。

この問題は、デイヴィッド・チャーマーズによって「意識のハード・プロブレム」と呼ばれ、広く知られるようになりました。

もちろん、この問題設定そのものに反対する立場もあります。認知機能や神経過程について十分な説明ができれば、主観的経験について別の問題を立てる必要はないと考える哲学者や研究者もいます。

したがって、「科学には意識を説明できない」と結論づけることはできません。

しかし現在のところ、なぜ主観的経験が存在するのかについて、学問全体で共有された一つの答えがあるわけでもありません。

ここで、既存知の地図は最初の大きな分岐へ入ります。

 

地図の端から先で、世界観が分かれる

答えが一つに定まっていないからといって、人類が何も考えてこなかったわけではありません。

むしろ、この地点から複数の大きな立場へ分かれていきます。

物理主義では、世界は根本的には物理的なものであり、精神や意識も最終的には物理世界の中で説明されると考えます。

二元論では、精神的なものと物質的なものを根本的に異なるものとして捉えます。汎心論では、意識あるいは経験的な性質を、人間の脳にだけ突然現れるものではなく、自然界のより根本的な特徴に関係するものとして考えます。

観念論では、物質よりも精神や経験、あるいは理念的なものを根本に置く立場があります。さらに、中立一元論やRussellian monismのように、「精神か物質か」という二分そのものを組み替えようとする考え方もあります。

ここで重要なのは、観察された現象そのものと、それをどのような世界像の中で説明するのかは別だということです。

脳活動と意識経験の関係について同じデータを見ていても、世界の根本に何を置くのかによって説明が分かれる。その地点まで来ると、神経科学だけではなく、形而上学や存在論が関わってきます。

 

「本当の自分」という考えにも、別の地図がある

Human Natureを考えるとき、もう一つ避けて通れないのが、自己そのものについての異なる考え方です。

社会的な役割や自己像が後から形成されたものだと分かれば、その奥に「形成されていない本当の自分」があるように考えることができます。

しかし、人類の思想には、それとは異なる方向もあります。その代表的なものの一つが、仏教哲学における無我の議論です。

身体、感覚、認識、意志、意識などをどれだけ調べても、その背後に独立した永続的実体としての自己を置く必要はない。私たちが自己と呼んでいるものを、さまざまな条件によって成立する過程として捉える方向があります。

これは、スピリットが身体を通してこの世界を経験しているという基点を、そのまま証明したり否定したりする議論ではありません。

むしろ重要なのは、人類は「自己とは何か」という問題について、実体を置く方向と、実体化そのものを疑う方向の双方を長く考えてきたということです。

そうであるなら、形成された自己、経験の一人称性、主体、意識、スピリットを、一つの「自己」という言葉の中で曖昧に扱うことはできません。

それぞれが何を指しているのかを、丁寧に区別していく必要があります。

 

「経験がある」と「スピリットがある」は、学問上は別の命題になる

ここも、既存学問との照合では重要な境界です。

少なくとも、何かが経験されているという問題については、現象学や意識研究が正面から扱っています。

しかし、経験に一人称性があることから、身体とは独立した永続的なスピリットが存在することまで、学問的に自動的に導かれるわけではありません。

物理主義なら、主体性や自己感覚も脳と身体によって実現されていると考えることができます。無我論では、経験の存在から固定的な主体を導くことそのものが疑われます。二元論では、身体とは異なる精神的主体を考えることができます。

つまり、既存知の地図では、

経験が存在すること。

その経験主体が、身体を超えて存在するスピリットであること。

この二つは区別されています。

ここでは、スピリットが身体に先立ち、そのスピリットが身体を通してこの世界を経験していることを探究の基点として置いています。

しかし、その基点を持つことと、既存学問の到達点を正確に見ることは両立します。

学問が何を確認しているのかと、どこに立って探究しているのかを混ぜない。

その区別をしたうえで、両者がどこで重なり、どこで離れるのかを見る必要があります。

 

身体を超えた主体について、人類はどこまで調べているのか

スピリットを基点に置くなら、身体と経験主体との関係は当然重要になります。

既存学問の側では、魂や死後存続について長い哲学・宗教思想の歴史があります。現代でも、臨死体験や心停止に関連する意識経験などについて研究が行われています。

ただし、そうした研究が存在することと、身体が機能しなくなったあとにも個人の経験主体が存続することが、科学的な共通理解として確立されていることは同じではありません。

現在の科学的知識だけから、「スピリットの存在と死後存続は確認された」と結論づけることはできません。

しかし、だからといって、この領域に研究すべき問題が何も残っていないわけでもありません。

重要なのは、スピリットの存在を毎回ゼロから証明し直すことではありません。

人類が身体と意識、死と経験主体について、実際に何を観察し、どこまで説明できているのかを知ることです。

 

最後には、人間ではなく「世界とは何か」という問いになる

意識についてさらに進んでいくと、問いは人間の内部だけには収まらなくなります。

物質が先にあり、十分に複雑な脳が生まれたことで意識が現れたのでしょうか。

それとも、意識あるいは経験的な性質は、世界のより根本的なところに関係しているのでしょうか。

精神と物質は、本当に根本的に異なるものなのでしょうか。それとも、一つの何かを異なる側面から見ているのでしょうか。

ここまで来ると、「人間の意識は何か」という問いが、そのまま「世界の根本は何か」という問いへつながっていきます。

心理学から認知科学へ進み、神経科学から意識研究へ進み、その先で心の哲学へ入る。さらに進めば、形而上学や存在論へ至る。

人間とは何かを追っていくと、最後には世界そのものをどう捉えるかという問題から逃れられなくなります。

 

Human Natureは、既存学問のどこに重なるのか

ここで、Human Natureという問いへ戻ります。

社会や文化によって形成されたものがあります。個人的な経験によって形成されたものがあります。身体を持つことによって生じる経験があります。社会的自己、物語的自己、身体的な自己経験、一人称的な経験、意識についても、それぞれ研究があります。

一方で、ここでは、人間は身体だけで完結する存在ではなく、スピリットが身体を通してこの世界を経験している存在であることを基点にしています。

すると、ここから本当に調べたいことが以前より明確になります。

社会や経験によって形成された精神や自己と、スピリットとしての存在は、実際にどのような関係にあるのか。

哲学や現象学が扱ってきた主体、自己、意識という概念は、スピリットのどの側面と重なるのか。

身体によって成立する自己経験と、身体に先立つスピリットを、どのような構造として理解できるのか。

さらに、哲学史の中で「human nature」と呼ばれてきたものと、ここでHuman Natureと呼んでいるものがどこまで一致するのかも調べる必要があります。

既存学問の中に答えを探すのではありません。

すでに存在する概念なら、その蓄積を受け取る。違うものを見ているなら、何が違うのかを明確にする。

知りたいのは、独自の言葉をつくることではなく、人間の中に実際に何が存在しているのかだからです。

 

地図の端は、「何もわからない場所」ではなかった

今回、人類が人間についてどこまで考えているのかを見てみて、「結局、何もわかっていない」とはまったく思いませんでした。

むしろ、その反対です。

社会と自己との関係については膨大な研究があります。心理的な自己形成についても多くのことが知られています。身体と自己経験の関係についても、現象学、認知科学、神経科学が深いところまで進んでいます。脳と意識の関係についても、現在進行形で精密な研究が続いています。

自己、主体、精神、意識についても、人類は長い時間をかけて考えてきました。

地図の端とは、知識が突然なくなる場所ではありません。

むしろ、かなり多くのことが分かった先で、複数の説明が分かれ始める場所です。

主観的経験をどう説明するのか。自己を実体として考えるのか、過程として考えるのか。意識を物質から生じるものと見るのか、世界のより根本的な性質に関係するものと見るのか。身体を超えた経験主体について、何を事実として確認できているのか。

そこから先では、観察された事実だけで一つの世界観を決めることが難しくなっていきます。

 

人類が歩いてきた地点から、何を見るのか

だから、これから行うことも以前より明確になりました。

すでに分かっていることを、自分一人でもう一度発見し直す必要はありません。

何が研究によってかなり確かに分かっているのか。何が有力な理論なのか。何について議論が続いているのか。どこから存在論によって説明が分かれるのか。

まず、その境界をできるだけ正確に見る。

そして、ここで基点としているものと照らし合わせる。

科学で説明されていないことを、ただちにスピリットの証拠にはしない。反対に、現在の科学で確認されていないという理由だけで、最初から探究の対象から外すこともしない。

既存学問に答えを決めてもらうのでも、自分の認識に合わせて既存学問を選び取るのでもありません。

人類がすでに歩いてきた地点をできるだけ正確に知り、その場所から自分が見ているものをもう一度見る。

そうすると、これから調べるべき場所もかなり具体的になります。

意識とは何なのか。自己や主体という概念と、スピリットはどのように関係するのか。身体と経験主体の関係について、既存研究はどこまで到達しているのか。意識と物質をめぐる複数の存在論は、何を説明でき、何を説明できていないのか。そして、Human Natureと呼んでいるものを、既存の知の中でどこまで正確に位置づけることができるのか。

ここには、まだ一枚の完成した地図はありません。

しかし、どこまで地図が描かれていて、どこから線が分かれているのかは、以前よりかなり見えるようになりました。

今必要なのは、その先を急いで埋めることではなく、地図の端を正確に知ることなのだと思います。

Human Natureを探究していくうえで、これから何を見なければならないのか。その位置が、少しずつ明確になってきました。

 

参考資料


Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Phenomenological Approaches to Self-Consciousness” https://plato.stanford.edu/entries/self-consciousness-phenomenological/
Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Consciousness” https://plato.stanford.edu/entries/consciousness/
Stanford Encyclopedia of Philosophy, “The Neuroscience of Consciousness” https://plato.stanford.edu/entries/consciousness-neuroscience/
Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Personal Identity” https://plato.stanford.edu/entries/identity-personal/
Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Dualism” https://plato.stanford.edu/entries/dualism/
Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Physicalism” https://plato.stanford.edu/entries/physicalism/
Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Panpsychism” https://plato.stanford.edu/entries/panpsychism/
Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Idealism” https://plato.stanford.edu/entries/idealism/
Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Mind in Indian Buddhist Philosophy” https://plato.stanford.edu/entries/mind-indian-buddhism/
Melloni, L. et al., “Adversarial testing of global neuronal workspace and integrated information theories of consciousness.” Nature, 2025 https://www.nature.com/articles/s41586-025-08888-1
Internet Encyclopedia of Philosophy, “The Hard Problem of Consciousness” https://iep.utm.edu/hard-problem-of-conciousness/

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