
私たちは、いつから制度を前提に生きるようになったのか
ある事業者について調べようとしたとき、「適格請求書発行事業者としての登録状況」という項目が目に入ることがあります。
登録されているのか。登録されていないのか。取引上必要な情報として確認しているだけであっても、「登録されている」という表示には、どこか安心できる印象があります。反対に、「登録されていない」と聞くと、その事業者に何か不足があるように感じる人もいるかもしれません。
けれど、そこで確認されているのは、事業者の誠実さでも、商品の品質でも、その人が信頼に値するかどうかでもありません。
特定の制度へ登録しているかどうかです。
制度上の資格と、その人や事業の実質は、本来同じものではありません。それでも私たちは、制度によって確認できる情報を、その対象を判断するための重要な材料として受け取っています。
これは、インボイス制度に限ったことではありません。
資格を持っている。認可を受けている。学校を卒業している。企業に所属している。審査を通過している。一定の基準を満たしている。
制度によって与えられた表示は、目に見えない信頼を、社会の中で扱える形へ変えていきます。
それによって、私たちは知らない人と取引し、会ったことのない専門家へ仕事を頼み、自分では詳しく理解できない商品やサービスを利用することができます。
制度は、社会を動かすために必要です。
けれど、その仕組みの中で長く生きているうちに、私たちはいつからか、制度を利用するだけではなく、制度を通して人や物事を見るようになったのではないでしょうか。
制度がなければ、社会は動かない
多くの人が関わる社会では、すべての相手を直接知ることはできません。
目の前の人がどのような人物なのか。その商品が安全なのか。その仕事を任せられるのか。説明されている内容が正しいのか。一つひとつを自分で確かめようとすれば、膨大な時間と労力が必要になります。
制度は、その確認の一部を共通の基準へ置き換えます。
免許がある。資格がある。登録されている。認証を受けている。法律上の要件を満たしている。
それらを確認することで、私たちは見知らぬ相手とも取引し、知らない場所を利用し、自分では詳しく理解していないサービスを受けることができます。
制度は、複雑な社会を動かすための共通言語です。
だから、制度が存在すること自体が問題なのではありません。制度がなければ、多くの活動は今より不安定になり、何かを利用するたびに、自分自身で相手の能力や安全性を一から確認しなければならなくなります。
問題があるとすれば、もっと別のところです。
制度によって確認されたことと、その対象そのものを、私たちがどこまで区別して見ているのか。
制度が便利であることと、制度によって示されるものが対象の全体であることは、同じではありません。
確認できるものが、信頼へ変わっていく
人の誠実さを数値で測ることはできません。文章の価値も、仕事への姿勢も、その人が何を見ているのかも、所定の欄へ記入するだけではわかりません。
一方で、登録番号は確認できます。資格証は提示できます。所属先は調べられます。経歴は一覧にできます。
社会の中では、確認できないものより、確認できるもののほうが扱いやすくなります。
そして、扱いやすいものが繰り返し判断に使われるうちに、私たちの認識の中で、少しずつ別の変化が起こります。
登録されているから信頼できる。資格を持っているから理解している。大きな組織に所属しているから安心できる。多くの人に選ばれているから価値がある。
もちろん、これらの判断が間違っているとは限りません。資格や登録、所属、実績は、対象について知るための有力な情報です。
けれど、本来は「判断材料の一つ」であったはずのものが、いつの間にか判断そのものへ近づいていくことがあります。
資格の内容を知らなくても、資格があることで安心する。認証基準を知らなくても、認証マークがあることで選ぶ。どのような審査が行われたのかを知らなくても、「審査済み」という表示を信頼する。
ここで起きているのは、単なる情報の省略ではありません。
自分では直接確認できない実質を、制度によって確認できる記号へ置き換えている。
複雑な社会を生きる以上、それは必要なことでもあります。しかし、その置き換えが日常のあらゆる場所で繰り返されると、制度では確認できないものは、判断の対象に入りにくくなっていきます。
「登録されていない」という情報は、何を意味しているのか
インボイス制度では、登録を受けた事業者だけが適格請求書を発行できます。そのため、法人や事業者が取引相手を確認するとき、登録の有無が判断材料になることがあります。
制度上の違いは明確です。
登録されていれば、適格請求書を発行できる。登録されていなければ、発行できない。
本来、この情報が示しているのはそこまでです。
事業者として優れているのか。仕事が丁寧なのか。提供しているものに価値があるのか。約束を守る人なのか。
登録の有無だけでは、それらはわかりません。
登録していない理由にも、事業規模、顧客層、税務上の選択、事務負担、事業の形態など、さまざまな事情があります。
それでも「未登録」という言葉は、ときに制度上の状態を超えて、その事業者に対する印象へと広がります。
ここには、制度そのものとは別の現象があります。
制度がつくった区分を、人間の認識が価値の区分として受け取り始める。
登録事業者と未登録事業者。有資格者と無資格者。正規と非正規。認定されたものと、認定されていないもの。
制度上の区分には、それぞれつくられた目的があります。しかし、その線を何度も見ているうちに、私たちは線の向こう側にある実質まで違っているように感じることがあります。
制度が対象を区別する。その区別を社会が使う。そして、その区別が私たちの認識の中にも入ってくる。
ここまで来ると、制度は手続きの外側でも働き始めます。
制度は、判断を助けながら判断の入口をつくる
制度には、私たちの判断を助ける働きがあります。同時に、自分ですべてを確かめなくても判断できる状態をつくる働きもあります。
認定されているなら大丈夫だろう。登録されていないなら避けておこう。多数の人が利用しているなら間違いないだろう。
このような判断は、日常生活では必要です。あらゆる場面を一から調べ、すべてを自分の責任だけで判断することはできません。
けれど、制度による判断に慣れるほど、「その基準は何を確認し、何を確認していないのか」という問いは消えやすくなります。
資格が証明するのは、定められた要件を満たしたことです。登録が証明するのは、定められた手続きを経て、その制度の対象となっていることです。認証が証明するのは、定められた基準に適合していることです。
そこには、それぞれ明確な役割があります。
しかし、制度が証明している範囲と、私たちがそこから受け取っている安心の範囲は、必ずしも一致しません。
そしてもう一つ、見落としやすいことがあります。
制度は、選択肢を評価するだけではありません。何を最初に見るのかという、判断の入口そのものをつくることがあります。
資格欄を見る。所属を見る。登録状況を見る。評価を見る。認証を見る。
それから、その人を見る。
制度は判断を助けています。しかし同時に、私たちが対象そのものを見るより先に、「どの情報を見るべきか」を教えているとも言えます。
制度が「つくられたもの」ではなくなるとき
制度は、最初から自然界に存在していたものではありません。人間が、社会を運営するためにつくったものです。
法律も、資格も、学校も、会社も、税制も、登録制度も、それぞれ異なる時代や社会的な必要の中で形づくられてきました。
ところが、一つの制度が長く使われ、その制度の中で教育を受け、働き、生活するようになると、制度は「人間がつくった仕組み」であることを感じにくくなります。
学校へ行く。資格を取る。組織に所属する。働いて賃金を得る。税を納める。行政上の手続きを行う。
私たちは、それらの仕組みがすでに存在する社会へ生まれます。
そのため、制度の中でどの選択をするかについては何度も考えます。
どの学校へ行くか。どの資格を取るか。どの会社で働くか。どの申請を行うか。どの制度へ登録するか。
しかし、その一つ手前にある問いは、日常ではほとんど必要とされません。
なぜ、この制度を通して判断しているのか。
制度が強制しているからとは限りません。
その制度を使って考えること自体が、すでに自然になっているからです。
ここには、制度の強制とは違う力があります。従わせるのではなく、前提になる。命令するのではなく、「そういうもの」として存在する。
制度が最も見えにくくなるのは、制度に従わされているときではなく、制度を制度として意識しなくなったときなのかもしれません。
制度の外にあるものは、見えなくなるのか
制度によって確認できるものが社会の中で重要になるほど、別の問いが生まれます。
制度によって確認できないものを、私たちはどう見るのでしょうか。
資格によって示されていない専門性。組織に所属していない人の仕事。認証されていない方法。数値として示しにくい価値。経歴だけでは読み取れない経験。
それらは、存在していないわけではありません。
ただ、制度の中では扱いにくい。
そして社会が大きくなるほど、扱いにくいものより、分類できるもの、比較できるもの、確認できるものが選ばれやすくなります。
すると私たちは、制度によって確認されたものを高く評価するだけではなく、制度によって確認できるものを、そもそも「見るべきもの」として認識するようになっていく可能性があります。
ここには小さいようで大きな違いがあります。
制度を使って世界を判断することと、制度によって世界の見え方そのものが形づくられることは、同じではありません。
前者では、制度は道具です。
後者では、制度は私たちの認識の一部になっています。
制度を疑うことではなく、制度を見ること
制度について考えると、すぐに賛成か反対かという二つの立場へ分かれやすくなります。
必要な制度なのか。廃止すべき制度なのか。従うべきなのか。抵抗すべきなのか。
しかし、制度を観察することは、制度に反対することではありません。
制度が何のためにつくられ、何を可能にし、何を区別し、何を証明し、そして私たちの判断へどのような影響を与えているのかを見ることです。
インボイス制度の背後には、消費税をどのように計算し、取引をどのように記録するのかという仕組みがあります。
資格制度の背後には、能力や知識を誰が、どの基準で確認するのかという問題があります。
学校制度の背後には、何を知識として扱い、誰に何を教え、その習得をどのように確認するのかという選択があります。
制度の表面だけを見れば、手続きや規則の問題に見えます。
けれど、その背後にはいつも、人間による選択があります。
何を確認するのか。何を基準にするのか。どこに線を引くのか。何を社会的に認めるのか。
制度を見るということは、その線をただ否定することではありません。
その線が、最初から世界に引かれていたものではないと知ることです。
制度の外側で、何を見ているのか
私たちは、制度から完全に離れて生きることはできません。
制度を利用し、制度に守られ、制度によって知らない人々との関係を結んでいます。それによって成り立っている社会があります。
だから必要なのは、制度をなくすことでも、制度による情報を無視することでもないのでしょう。
登録されていることと、信頼できること。資格を持っていることと、理解していること。評価されていることと、価値があること。合法であることと、正しいこと。
それぞれには関係があります。しかし、同一ではありません。
制度が示しているものを、その範囲で正確に受け取る。そして、制度が示していないものまで、制度によって判断したつもりにならない。
そこまでは、意識することができます。
けれど、もう一つ先には、少し答えにくい問いがあります。
私たちは本当に、制度を使って世界を見ているだけなのでしょうか。
それとも、長いあいだ制度の中で生きてきたことで、何を見るのか、何を信頼するのか、何を価値あるものとして認識するのかというところまで、制度を前提に考えるようになっているのでしょうか。
何かが登録されているかを確認したあとで、その対象自体を見る。
資格を確認したあとで、その人が何を知っているのかを見る。
所属を確認したあとで、その人が何をしているのかを見る。
評価を確認したあとで、自分自身が何を感じているのかを見る。
制度が判断の入口を用意してくれる社会の中でも、その入口と、目の前にあるものは同じではありません。
制度は、私たちの外側にあります。
けれど、その制度を長く前提として生きたとき、それはどこまで私たちの内側へ入っているのでしょうか。
制度そのものよりも、最後に見てみたいのは、そこなのだと思います。