
成果の先で見えてきたもの|私たちは何を競っているのだろう
店舗運営に携わっていた頃、私は売上向上施策や商品販売企画にも取り組んでいました。
全国規模の販売施策で上位成績を収めたこともあります。
当時は純粋に面白い仕事でした。
どうすれば人は動くのか。
どうすれば価値が伝わるのか。
どうすれば結果につながるのか。
考え、試し、改善する。その繰り返しでした。
結果が出ると嬉しい。
評価されると励みになる。
自分の工夫が数字として現れれば、手応えもあります。
私はそうした仕事に、確かにやりがいを感じていました。しかし後になって、ひとつの問いが生まれます。
なぜ私は、それを価値あることとして受け取っていたのだろう。
結果を出すことそのものではありません。結果を価値あるものとして受け取っていた自分への問いでした。
成果を出しても終わらない
振り返ってみると、不思議なことがあります。
ひとつ結果が出る。
すると次の目標が現れます。
評価される。
するとさらに上の評価が現れます。
売上を伸ばす。
すると今度は前年比が求められます。
その繰り返しです。
もちろん、それは悪いことではありません。組織はそうして運営されています。
私自身も、その仕組みの中で多くを学びました。ただ、あるとき気づいたのです。
成果を出すことに終わりがないのではなく、成果を価値あるものとして受け取ることに終わりがないのではないか。
結果が出れば、次の結果が求められる。
評価されれば、さらに上の評価が見えてくる。
認められれば、もっと認められたいという感覚が生まれる。
そうしているうちに、いつの間にか外側の基準が、自分の内側に入り込んでいきます。
私は何を手に入れたかったのだろう
当時の私は、売上や順位だけを求めていたのでしょうか。
結果が出ることは嬉しかったです。評価されることにも、達成感がありました。自分の工夫が形になり、現場が動き、数字が変わっていくことには、確かな面白さがありました。けれど今振り返ると、本当に求めていたものは、成果そのものだけではなかったようにも思います。
その成果によって、自分の価値を確かめたかった。
認められる存在であることを証明したかった。
十分であることを感じたかった。
もしそうだとするなら、私は売上や順位を求めていたようで、その背後にある何かを求めていたことになります。
結果を出したい。
評価されたい。
認められたい。
そうした感覚の奥には、自分の価値を外側で確かめようとする働きがあったのかもしれません。そして、それは私だけの話ではないようにも思います。
価値はどこからやってくるのか
考えてみると、私たちは早い段階から評価に囲まれています。
学校では点数があります。
順位があります。
合格と不合格があります。
社会に出れば、売上、実績、昇進、表彰という形に変わります。内容は違っても、「測る」「比較する」「評価する」という構造は続いています。その中で私たちは、評価されることを自然なものとして受け取ります。
結果を出すこと。
認められること。
上位に入ること。
それらはいつの間にか、価値あることとして感じられるようになります。けれど、その価値はどこからやってくるのでしょうか。
本当に自分の内側から選んだものなのでしょうか。それとも、育つ過程や社会の中で、いつの間にか受け取っていたものなのでしょうか。
踊らされていたのか
後になって私は、「あの頃は踊らされていたのかもしれない」と思ったことがあります。
ただし、それは会社が悪いという話ではありません。
誰かに騙されていたという話でもありません。むしろ私は、自分の意思で考え、自分の意思で行動していました。実際に工夫したのは私であり、現場で動いたのも私でした。結果を出すために考え、試し、改善していたことも事実です。
しかし同時に、その努力の向かう先は、すでに用意された評価の枠組みの中にありました。
売上を伸ばす。
評価される。
順位を上げる。
成果を出す。
私はそのゲームを一生懸命やっていました。そして、結果も出しました。だからこそ後になって、「私は何のゲームをしていたのだろう」という問いが生まれたのです。
構造を見るということ
ここで大切なのは、競争が悪いと言いたいわけではないことです。
成果を出すことも悪くありません。
評価そのものを否定したいわけでもありません。
私が興味を持ったのは、なぜ私たちはそれを価値あるものとして受け取るのか、ということでした。
構造を見るとは、結果を否定することではありません。
結果を支えている前提を見ることです。
なぜ人は評価を求めるのか。
なぜ順位に反応するのか。
なぜ成果によって自分の価値を測ってしまうのか。
そうした問いは、仕事だけでなく、教育、人間関係、社会制度にもつながっていきます。
そしてそれは、外側の社会だけの話でもありません。
社会の構造は、いつの間にか自分の内側にも入り込んでいます。
外側の評価を、自分自身の価値のように感じる。
外側の順位を、自分の存在の証明のように受け取る。
そうした感覚が生まれるとき、構造はもう外側にあるだけではありません。自分の見え方そのものになっています。
私たちは何を競っているのだろう
成果を出した経験は、今でも無意味だったとは思いません。むしろ多くのことを学びました。
人がどう動くのか。
組織の空気がどのように変わるのか。
言葉や行動が、現場にどのような影響を与えるのか。
それらは、実際に経験したからこそ見えたものです。だから私は、過去を否定したいのではありません。ただ、ときどき立ち止まって考えてみたいのです。
私は今、何を価値あるものとして見ているのだろう。
それは本当に自分で選んだものなのだろうか。
それとも、いつの間にか受け取っていたものなのだろうか。
私たちは、何を競っているのでしょうか。
売上でしょうか。
順位でしょうか。
肩書きでしょうか。
評価でしょうか。
それとも、それらを通して、自分の価値を確かめようとしているのでしょうか。
ここで、さらに一歩引いて見てみると、別の景色も見えてきます。
なぜ企業は、KPIや売上目標で動くのでしょうか。
なぜ学校は、点数や順位で人を測るのでしょうか。
なぜ社会は、比較と評価をこれほど自然なものとして扱っているのでしょうか。
もちろん、それには合理性があります。
大きな組織を動かすには、可視化された指標が必要です。
数値化。
比較。
評価。
それらがあるからこそ、管理が可能になり、効率化も進みます。けれど同時に、その仕組みの中で、私たちは少しずつ「測れるもの」を価値だと感じるようになります。
売上。
順位。
偏差値。
年収。
肩書き。
フォロワー数。
本来、それらは一つの指標に過ぎません。しかし長くその構造の中で生きていると、指標はいつの間にか価値そのもののように見え始めます。
測れるものが価値になる。
比較できるものが価値になる。
評価されるものが価値になる。
もしそうだとすれば、私たちが競っているのは、単なる成果ではないのかもしれません。
私たちは、評価可能な価値を通して、自分の存在価値を確かめようとしているのかもしれません。
構造を見るとは、答えを否定することではありません。答えが生まれる前提を見ることです。
なぜ私は、それを価値あることとして受け取っていたのだろう。
その問いは、仕事や競争の話にとどまらず、私たちが何を価値として生きているのかを見つめる入口になるのだと思います。