Inner Growth

内面の探究・人間存在の考察

すでに考えられていることから始める|既存学問とHuman Nature

最近、社会学について概要を説明した本に目を通す機会がありました。社会学がどのようなことを扱う学問なのかは、それまでもなんとなく知っていましたが、体系的に学んできたわけではありません。

あらためて概要を眺めていると、社会構造、制度、規範、役割、階級、社会と個人の関係など、これまで考えてきたことと重なるものがいくつもありました。

そこで、一つの疑問が浮かびました。

もしかすると、ここでやっていることは、単に社会学なのではないか。

もしそうなら、それはそれで構いません。自分が考えてきたことに独自の名前をつけたいわけではありませんし、誰も考えたことのないことを考えていると示したいわけでもありません。

知りたかったのは、もっと単純なことでした。

これまで追ってきた問いについて、人類はすでにどこまで考えているのだろう。

研究であれば、先行研究を調べ、すでに何が考えられ、何が明らかになっているのかを確認することは基本です。これまでも個々の問題について調べるときには、論文や書籍、学術的な資料を参照してきました。

ただ、今回は一つのテーマについて先行研究を探すというより、自分がこれまで追ってきた問いを少し離れたところから眺め、それぞれが既存学問のどこで扱われているのかを広く見てみることにしました。

すると、社会学だけではありませんでした。社会心理学、心理学、現象学、心の哲学、認知科学、神経科学、意識研究。そして、人間とは何か、人間にはどのような本性があるのかという問いについては、哲学を中心に長い思考の蓄積があります。

私は、こうした領域について、まだ分かっていないことが多いのだろうと漠然と思っていたところがあったのだと思います。しかし実際に見ていくと、人間については、思っていた以上に多くのことがすでに考えられていました。

もちろん、すべてに答えが出ているわけではありません。学問の中でも立場が分かれている問題があり、現在も研究や議論が続いている問題があります。それでも、自分が問いとして辿ってきた場所のかなり近くまで、人類は別々の道からすでに来ていました。

それを知ったことは、私にとって嬉しいことでした。

では、何がすでに考えられていて、それでも何が問いとして残っているのでしょうか。

 

社会の外側ではなく、人間の内側を見る

最初に疑問を持った社会学には、これまで考えてきた問題と重なるところがかなりあります。

人間は社会の中で生きています。家庭があり、学校があり、仕事があり、制度があります。そこには規範があり、役割があり、評価の基準があります。そして、それらは人間の外側に存在しているだけではありません。

社会と自己の関係については、すでに長い研究の蓄積があります。ジョージ・ハーバート・ミードは、自己を他者との社会的相互作用から切り離して考えるのではなく、社会的な過程との関係から捉えました。ピーター・バーガーとトーマス・ルックマンは、人間によってつくられた社会的現実が制度化され、それが再び人間によって内面化されていく過程を論じています。

ピエール・ブルデューのハビトゥスという概念まで見ると、社会的な環境との関係は、明示的な知識や価値観だけではなく、ものの感じ方、振る舞い方、選択の傾向、何を自然だと感じるのかという水準にまで及びます。

人間の外側にある社会的なものが、人間の内側に入り込み、やがて世界を見るための前提にもなっていく。

この問題については、すでにかなり多くのことが考えられていました。

ただ、社会学を見ていくことで、同時に自分が何を知りたいのかもはっきりしてきます。社会そのものを知ることが最終的な目的ではありません。

社会の中で生きることによって、人間の内側には何が形成されているのか。

社会構造、制度、文化、歴史、言語などを見るのも、それらが人間の認識や自己像、価値観、行動の前提にどのように関わっているのかを見るためです。

この地点では社会学とかなり重なります。しかし、人間の内側へ進んでいくと、社会学だけでは収まらなくなっていきます。

 

「自分だと思っているもの」は、どこまで形成されたものなのか

心理学には、思考、感情、記憶、信念、自己概念などについて膨大な研究があります。社会心理学では、他者や集団との関係が、自己認識や判断、行動にどのように関係するのかが研究されています。

私たちは、自分についてさまざまな認識を持っています。自分はこういう人間だ。これは自分に向いている。これは自分にはできない。こう生きるべきだ。これは正しい。これは間違っている。

普段は、それらをまとめて一つの「自分」として経験しています。しかし、そのすべてが、生まれたときから現在と同じ形で存在していたわけではありません。個人的な経験によって形成されたものもあれば、家庭や学校、文化、社会との関係の中で身についたものもあります。

「自分だと思っているもの」の中には、後から形成されたものがある。

このことについても、すでに多くの研究があります。

すると、ここで問いを一段進めることができます。何かが形成されているのであれば、何がどのように形成されているのかを見分けることができるかもしれません。

社会や文化との関係から形成されたもの。個人的な経験から形成されたもの。身体の状態と関係しているもの。それらを最初から一つの「自分」として扱わずに見ていけば、人間の内面をいくつかの層に分けて考えることができます。

しかし、ここでさらに別の問いが残ります。

思考や感情、記憶、信念、自己像について、それらがどのように形成されたのかを調べることはできます。では、それらすべてが「自分の経験」として生じていること自体は、どのように考えればよいのでしょうか。

 

「経験している」ということも、すでに考えられている

この問題に近いところまで進んでいた既存学問の一つが、現象学でした。

現象学には、「前反省的自己意識」と呼ばれる議論があります。たとえば音楽を聴いているとき、私たちは「私はいま音楽を聴いている」と自分について考えてから音を経験しているわけではありません。悲しんでいるときにも、「私は悲しんでいる」と言葉にするより前に、悲しみはすでに経験されています。

自分について説明すること、自分を振り返ること、自分について物語をつくることより前に、経験にはすでに一人称的な性格がある。フッサール、サルトル、メルロ=ポンティなどに連なる現象学では、このような自己意識や主体性について長く考えられてきました。

これは、スピリットについて説明しているという意味ではありません。現象学がまず扱っているのは、経験がどのように現れているのかという問題です。

しかし、ここまで既存の議論があることを知ると、「自分」という言葉で一括りにしていたものを、もう少し慎重に見ることができます。

社会や経験との関係の中で形成されてきた自己像がある。一方で、自分について考えるより前から、経験はすでに自分にとっての経験として生じている。

形成された自己についての問いと、経験することそのものについての問いは、区別して考えることができます。

そして、その区別についても、自分一人で最初から考える必要はありませんでした。すでに長い思考の蓄積があります。

 

身体を通して経験するということ

さらに、人間の内面について考えていくと、身体も無視することはできません。

人間という存在を身体だけで説明することと、人間としての経験が身体と深く結びついていることは、同じではありません。

痛み、疲労、空腹、呼吸、緊張、快、不快。身体の状態が変われば、同じ出来事であっても世界の感じ方が変わることがあります。

メルロ=ポンティの現象学では、身体は単なる外側の物体としてではなく、私たちが世界を経験することそのものに深く関わるものとして考えられました。現代の認知科学にも、認知を脳の内部だけで完結するものとして捉えず、身体や環境との相互作用から考える身体化された認知の研究があります。

こうした研究が示しているのは、人間が身体だけの存在であるということではありません。人間としてこの世界を経験しているあいだ、身体の状態や働きが、知覚、感情、認知、そして世界の感じ方と深く関係しているということです。

存在そのものについての問いと、身体を持つことでどのような経験が生じるのかという問いは、同じではありません。

社会によって形成されたもの。個人的な経験によって形成されたもの。身体を持つことで生じるもの。そして、それらを経験していること。既存学問を見ていくことで、一つの「人間」の中に重なっているものを、少しずつ区別して見ることができるようになります。

 

Human Natureについて、人類は何を考えてきたのか

そして、Human Nature、つまり「人間の本性」についても、当然ながら長い思想の蓄積があります。

Human Natureという言葉自体を、私は今回初めて知ったわけではありません。Office Human Natureという名前にも使っているように、「人間の本性」という意味を持つ言葉として以前から使ってきました。

哲学では古くから、人間とはどのような存在なのか、人間に共通するものは何なのか、人間を人間たらしめているものは何なのかという問いが繰り返し考えられてきました。古代哲学では理性や社会性を含む人間に固有の性質や生のあり方が論じられ、その後も自由、道徳、社会性、生得性など、さまざまな観点から人間の本性が考えられてきました。

ただし、「人間には時代や文化を超えて変わらない一つの本性がある」という考えだけが続いてきたわけではありません。人間のあり方のどこまでが生得的なのか。社会や文化は人間をどこまで形づくるのか。人間に共通する特徴と、歴史や環境によって変化する特徴をどのように区別するのか。そもそも、人間を固定された本質によって定義することができるのか。human natureという概念そのものについても議論が続いてきました。

進化論以後には、生物種を変化しない本質によって捉える考え方も大きく問い直されています。現代の哲学には、人間であれば例外なく持っていなければならない固定的な性質を探すのではなく、人類の進化史によって人間に典型的に見られるようになった特徴からhuman natureを考えようとする立場もあります。

つまり、「人間の本性とは何か」という問い自体についても、人類はすでに長い時間をかけて考えてきたということです。

ここで興味があるのは、哲学におけるhuman natureの定義を一つ選び、それを答えにすることではありません。

むしろ、ここまで見てきた既存学問の蓄積を、人間の本性という問いの周囲に置いてみることです。

社会学を見ると、社会や制度が人間の内側に入り込んでいることが分かる。心理学や社会心理学を見ると、自己認識や信念、判断が形成されていく過程について多くのことが研究されている。現象学を見ると、そうした自己について考える以前から、経験には一人称的な性格があることが論じられている。身体性の研究を見ると、人間としての経験が身体と切り離せないことも見えてきます。

すると、最初から「人間の本性とはこれである」と答えを置くよりも、すでに考えられていることを知ったうえで、自分が見ようとしている人間という存在へ、もう一度問いを戻すことができます。

人間の内面に存在しているもののうち、何が社会や文化との関係から形成されたものなのか。何が個人的な経験によって形成されたものなのか。身体を持つことによって何が生じているのか。そして、その奥にある人間の本性とは何なのか。

ただ、ここで見ようとしている人間は、社会、心理、身体だけで完結する存在ではありません。意識やスピリット、霊性、波動、存在状態と現実との関係など、既存学問の中では同じ枠組みで扱われていない問題も、これまで問いの中に含まれてきました。

それらについても、すでにどのような研究や思想があり、どこまで考えられているのかを知る必要があります。そのうえで、既存の説明で捉えられるものと、そこにはまだ収まらないものを見ていけばいい。

人間についてすでに積み重ねられている知は、そのためにも使うことができます。

 

一つの学問ではなく、一人の人間を見る

ここまで見てくると、最初に持った「ここでやっていることは、単に社会学なのではないか」という疑問にも、ある程度答えることができます。

社会について考えるところでは、社会学と大きく重なります。自己形成について考えれば、社会心理学や心理学と重なります。経験する主体へ進めば現象学があり、身体について考えれば身体性の哲学や認知科学があり、意識については心の哲学、神経科学、意識研究があります。人間の本性そのものについても、哲学を中心に長い議論があります。

一つ一つを見れば、すでに研究している学問があります。

しかし、実際の人間は、それらの学問の境界に沿って存在しているわけではありません。

一人の人間が、社会の中で生きています。身体を持っています。経験しています。記憶し、考え、感情を持ち、自分についての認識を形成しています。そして、その認識を通して世界を見ています。

見たいのは学問の境界ではなく、その一人の人間の中で何が起きているのかということです。

だから、社会学なのか、心理学なのか、哲学なのかという分類から研究対象を決める必要はありません。問いに必要であれば、その領域ですでに積み重ねられている知を使うことができます。

学問ごとに分かれて蓄積されてきた知を、人間という一つの存在のところでもう一度見る。そのとき、それぞれの研究がどこまで同じものを見ていて、どこから異なるものを扱っているのかも見えてくるはずです。

 

既存知の中に、問いの位置を探す

今回、AIとの対話が役立ったのも、この部分でした。

AIに答えを決めてもらうのではなく、「この問いについて、既存学問ではどのような研究があるのか」と横へ広げていく。そうすると、社会学から社会心理学、心理学、現象学、心の哲学、認知科学、意識研究へと、自分が知らなかった研究領域や概念を見つけることができます。

もちろん、そこで示された説明をそのまま事実として採用することはできません。重要な概念や研究については、論文、専門書、学術的な事典などへ戻って確認する必要があります。複数の研究領域の間に関係が示された場合にも、本当にそのように言えるのかを確かめる必要があります。

それでも、個人で広い領域を探究するとき、自分がまだ知らない研究空間を見つける入口としてAIを使えることは大きいと思います。

自分の代わりに考えてもらうのではなく、自分がまだ知らない知へ辿るために使う。

そうして既存研究へ進み、そこで何が考えられているのかを知ったうえで、もう一度、自分の問いへ戻ることができます。

 

すでに考えられている地点から、その先を見る

社会学について調べ始めたところから、思っていたよりも広い研究の蓄積が見えてきました。

社会と自己の関係については、すでに多くのことが考えられている。自己認識や信念が形成される過程についても研究がある。自分について考える以前の経験についても、現象学には長い議論がある。身体と経験の関係についても、哲学や認知科学から研究されている。意識については、現在もさまざまな理論と研究が存在する。そして、人間の本性についても、古代から現在まで問い続けられています。

私は、既存学問について十分に知らないまま、こうしたことはまだあまり分かっていないのだろうと思っていたところがありました。

しかし、実際にはそうではありませんでした。

分かっていることがある。かなり深く考えられていることがある。異なる説明が存在することもある。そして、現在も答えが出ていないことがある。

ならば、その区別を一つずつ見ていけばいい。

既存学問を判定者にする必要はありません。現在の学問で説明されていないから存在しないと決める必要もなければ、自分の経験や直感を理由に既存研究を無視する必要もありません。

すでに何が分かっているのか。何について議論が分かれているのか。どの説明がどこまで届いているのか。そして、その先に何が残っているのか。

すでに考えられていることから始める。

研究で先行研究を調べるという一般的な意味だけではなく、自分が追ってきた問いを、人類が積み重ねてきた知の中に一度置いてみる。

そうすると、自分が一人で考えていたときには見えていなかったものが見えてきます。同じ問いに別の言葉で近づいてきた研究があることも、自分が一つだと思っていた問題が複数の問題に分けられることも、反対に別々の学問が一人の人間の中ではつながっていることもあります。

そして、その蓄積を受け取ったうえで、もう一度、人間を見る。

人間について、すでに何が考えられているのか。その知はどこまで人間という存在を捉えているのか。そして、意識や霊性、波動まで含めて見たとき、それでもなおHuman Natureについて何が問いとして残るのか。

いま見たいのは、その先です。

 

参考資料


Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Human Nature” https://plato.stanford.edu/entries/human-nature/
Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Phenomenological Approaches to Self-Consciousness” https://plato.stanford.edu/entries/self-consciousness-phenomenological/
Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Embodied Cognition” https://plato.stanford.edu/entries/embodied-cognition/
Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Maurice Merleau-Ponty” https://plato.stanford.edu/entries/merleau-ponty/
Stanford Encyclopedia of Philosophy, “George Herbert Mead” https://plato.stanford.edu/entries/mead/
Machery, Edouard, “Doubling Down on the Nomological Notion of Human Nature,” Why We Disagree About Human Nature, Oxford University Press, 2018 https://academic.oup.com/book/25419/chapter-abstract/192552963

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