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人は、なぜ「まだ起きていない未来」に苦しむのか|不安はどこから生まれているのか

不安という感情は、とても不思議なものです。

目の前には何も起きていません。

誰かに責められているわけでもありません。

失敗したわけでもありません。

何かを失ったわけでもありません。

それでも胸は苦しくなります。

呼吸は浅くなります。

身体は緊張します。

頭の中では、まだ訪れていない未来が何度も繰り返されています。

「もし失敗したらどうしよう。」

「嫌われたらどうしよう。」

「思うようにならなかったらどうしよう。」

人は、まだ存在していない出来事によって、本当に苦しむことがあります。

では、不安とは何なのでしょうか。

未来そのものなのでしょうか。

それとも、未来を見つめる私たちの意識の働きなのでしょうか。

 

不安は、未来そのものではない

私たちは、不安になると「未来が怖い」と感じます。

けれど、本当に怖れているのは未来でしょうか。

未来は、まだやってきていません。

そこには、まだ何もありません。

あるのは、その未来について考えている思考です。

私たちは未来を体験しているのではありません。

未来を想像しています。

その想像に、身体が反応しています。

つまり、不安は未来から届いているわけではありません。

未来について語っている思考に、今この瞬間の身体が反応しているのです。

だから、不安とは未来の中にあるものではありません。

いつも「いま」の中で生まれています。

 

人は、思考を現実として体験する

私たちの脳は、現実と想像を完全には切り分けていません。

レモンを思い浮かべるだけで唾液が出ることがあります。

怖い映画を見れば、身体は緊張します。

過去の失敗を思い出せば、何年も前の出来事なのに胸が苦しくなることがあります。

頭では「思い出しているだけ」だと分かっています。

それでも身体は、本当に起きていることのように反応します。

未来への不安も同じです。

まだ何も起きていません。

それでも思考の中で未来を繰り返し体験することで、身体は現実と同じように反応します。

苦しみは未来から届いているのではありません。

未来について語る思考によって、今ここで生み出されています。

 

不安は、自分を守ろうとする働きでもある

ここで一つ、大切なことがあります。

不安は敵ではありません。

本来、不安は自分を守るための働きです。

危険を予測する。

失敗を避ける。

準備をする。

その力があるからこそ、人は生き延びてきました。

問題は、不安があることではありません。

不安だけが現実になってしまうことです。

どんな未来も危険に見える。

どんな挑戦も失敗に見える。

どんな出会いも傷つく可能性として映る。

その状態では、不安は未来を守る力ではなく、現在を狭める力へ変わっていきます。

 

不安が語る物語を、私たちは信じている

不安そのものよりも、私たちを苦しめるものがあります。

それは、不安が語る物語です。

「きっと失敗する。」

「どうせうまくいかない。」

「自分には乗り越えられない。」

その言葉は、未来を予言しているように聞こえます。

しかし実際には、それは未来ではありません。

一つの可能性です。

それも、多くの場合、自分がもっとも怖れている可能性です。

人は、不安そのものよりも、不安が語る物語を現実だと思ったときに苦しみ始めます。

そして、その物語に沿って未来を見始めます。

まだ白紙だった未来が、不安によって色づけられていくのです。

 

未来を支配したいと思うほど、不安は大きくなる

私たちは、不安をなくそうとして未来をコントロールしようとします。

もっと準備しよう。

もっと考えよう。

もっと完璧になろう。

もちろん、準備は大切です。

しかし、未来を完全に支配することはできません。

どれほど計画しても、予想外の出来事は起こります。

人との出会いも別れも、自分だけでは決められません。

それでも、すべてを思い通りにしようとすると、不安は終わりません。

なぜなら、「まだ足りない」という感覚が続くからです。

安心とは、未来を完全に管理できた状態ではありません。

管理できないものがあることを受け入れたときに、静かに訪れるものなのかもしれません。

 

「任せる」とは、諦めることではない

ヘンリー・フォードは、こんな言葉を残しています。

神さまはすべてを心得ておられる。

私が口を挟んだりする必要はないのだ。

神さまにすべてを任せきれば、最終的には何事もいちばんいいかたちに収まってくれる。

そういうことなら、何を心配することがあるだろう。

この言葉は、「何もしなくていい」という意味ではありません。

また、未来を放棄することでもありません。

未来を自分だけで支えなければならないという前提から降りることです。

私たちには、できることがあります。

今日できる準備があります。

今日できる選択があります。

しかし、その先に起こるすべてを握りしめることはできません。

任せるとは、自分の役割を果たしたあとも、なお未来を支配し続けようとする力みを手放すことです。

 

安心は、未来ではなく「いま」にある

不安をなくそうとすると、人は未来へ向かいます。

安心は未来の中にあると思うからです。

もっとお金があれば安心できる。

問題が解決すれば安心できる。

評価されれば安心できる。

しかし、その未来が訪いても、また次の不安が生まれることがあります。

安心を未来に置いている限り、人は「まだ安心できない現在」を生き続けることになります。

安心は、未来で完成するものではありません。

いま、この瞬間に呼吸をしていること。

身体がここにあること。

今日できることを一つ行うこと。

そうした現実へ意識が戻るとき、人は未来ではなく、現在を生き始めます。

その場所に立つと、不安は消えるわけではありません。

けれど、不安だけが現実ではなくなります。

 

未来を生きることはできない

私たちは未来のために生きているように感じることがあります。

しかし、未来を生きることはできません。

生きられるのは、いつもこの瞬間だけです。

未来について考えているのも、「いま」です。

心配しているのも、「いま」です。

安心しているのも、「いま」です。

つまり、私たちが本当に生きている場所は、いつも変わりません。

不安とは、未来そのものではありません。

未来について語る思考と、それを信じた意識の中で生まれる体験です。

だから、人は不安を無理に消す必要はありません。

その物語を、そのまま現実だと信じ続けなくてもいいのです。

未来は、まだ決まっていません。

そして、私たちが本当に触れられる人生は、いつも「いま」にあります。

そのことを静かに思い出したとき、人は未来を支配しようとする生き方から少し離れ、自分の足元にある人生を、もう一度穏やかに歩き始めることができるのかもしれません。

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