
なぜ私たちは「個」として存在するのか|一なるものとスピリットの固有性
すべての存在の根源は一つであり、個々のスピリットはそこから本質的に切り離されていない。同時に、スピリットにはそれぞれ固有性があります。
私は私として存在し、あなたはあなたとして存在している。身体や名前や社会的な役割が異なるというだけではなく、それらを取り除いても、すべてのスピリットが交換可能な同一の存在になるわけではない。
ここには、一見すると矛盾があります。根源では一つであるのに、なぜ「私」と「あなた」が存在するのでしょうか。
一なるものだけが本当の存在であり、個とは一時的な錯覚にすぎないのでしょうか。それとも、一であることと個であることは、本来、矛盾していないのでしょうか。
この問いは、「なぜ経験するのか」という問いとも深くつながっています。ただし、ここで順序を間違えないほうがよいように思います。
経験するために、後から個がつくられた。そう考える必要があるとは限りません。
もしかすると、存在はもともと一でありながら、同時に固有でもある。そして、固有の存在であるからこそ、それぞれの経験が生まれているのかもしれません。
「すべては一つ」だけでは説明できないもの
「すべては一つである」という認識は、霊的な思想の中で繰り返し語られてきました。私たちは完全に切り離された存在ではない。個々の存在の根底には共通する根源があり、そこでは現在感じているような絶対的な分離はない。
この認識そのものに、大きな違和感はありません。しかし、ここから「だから個は幻想である」と進むと、一つ残るものがあります。
では、なぜ固有性があるのでしょうか。
身体だけが違うのであれば、身体を離れれば違いは消えることになります。人格だけが違うのであれば、記憶や経験を取り除けば、個である意味もなくなります。
けれど、スピリットそのものに固有性があるとするなら、個は身体によって一時的につくられた輪郭ではありません。それぞれの存在に、その存在であることそのものの違いがある。
この違いは、「一なるもの」という認識によって消してしまうことができません。むしろ考えるべきなのは、一と個のどちらが本当なのかではなく、なぜ一であることと固有であることが同時に成立しているのかということになります。
一であることと、多であること
私たちは通常、「一」と「多」を反対のものとして考えます。一つなら、複数ではない。複数なら、一つではない。
物質的なものを数えるときには、それで問題ありません。一個の石と十個の石は明確に違います。しかし、存在の根源について考えるときにも、同じ意味で「一」という言葉を使えるのでしょうか。
すべての根源が一つであるというとき、それは巨大な一個の存在があり、そこから小さな破片が切り離されて私たちになった、という意味ではないはずです。もしそうなら、個が生まれるたびに一なるものは分割されていきます。そして分割された個は、もはや一ではありません。
けれど、個が存在しても根源的な一体性が失われないのであれば、ここでいう「一」は数としての一とは違います。
一なるものの中に、多が存在することができる。
あるいは、もう少し正確に言えば、私たちが「一」と「多」と呼び分けているものが、存在の異なる側面なのかもしれません。根源においては切り離されていない。しかし、存在としては固有である。
そう考えるなら、「一か、多か」という二者択一そのものが必要なくなります。
個は、一なるものの失敗ではない
一なるものを完全な状態と考え、個をそこから分離した状態と考えると、個であることにはどこか否定的な意味が生まれます。
本当は一つだった。しかし、何らかの理由で分かれた。だから、最後には再び一つへ戻らなければならない。
この構図では、個は途中の状態です。究極的には解消されるべきものになります。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
根源とのつながりが一度も失われていないのであれば、個として存在することは「一から離れてしまったこと」ではありません。最初から、一でありながら個である。
そうであるなら、個であることは根源的な状態からの逸脱ではなくなります。固有性そのものが、存在のあり方の一部になります。
これはかなり大きな違いです。個である理由を、何か別の目的によって正当化する必要がなくなるからです。
経験するために個が必要だった。学ぶために個になった。成長するために分離した。そうした説明より前に、そもそも存在は、一であると同時に固有でもあるのかもしれません。
では、経験と個はどのようにつながるのか
ここで、経験との関係も少し変わって見えてきます。
「経験するために個がつくられた」と考えると、経験が先に目的としてあり、その目的を実現するための装置として個が必要だったことになります。
しかし、個が存在の本来的なあり方の一部なら、順序は逆です。
個であるから、経験は固有のものになる。
私は、私として世界を見る。あなたは、あなたとして世界を見る。同じ出来事に出会っても、同じ経験にはなりません。
これは単に、人間として持っている記憶や性格が違うからだけではない。スピリットそのものに固有性があるのなら、経験する主体そのものが異なるからです。
すると、世界で起きていることは、一なるものが同じ経験を無数に繰り返していることではなくなります。固有の存在が、それぞれにしか経験できない世界を経験している。その経験によって変化し、また次の経験へ向かう。
生きること、経験すること、変化すること、霊的に進んでいくことは、ここで一つの流れとしてつながります。
「私」でなければ経験できないもの
ここまで考えると、「なぜ私は私なのか」という問いにも別の意味が生まれます。
私がたまたまこの身体へ入ったから、私は私なのでしょうか。もし身体だけが個を決めているのであれば、身体を変えれば「私」であることの根拠も失われます。
しかし、スピリットそのものに固有性があるのなら、この人生は単なる無名の意識が一時的に体験している出来事ではありません。
この私だから経験している世界があります。
同じ出来事を別のスピリットが経験すれば、まったく同じものにはならない。誰かを愛することも、失うことも、成功することも、孤独になることも、その経験だけを切り取れば多くの人に起きています。
しかし、それを経験する存在まで含めれば、一つとして同じ経験はありません。個の固有性とは、単に「他者と違う」ということではなく、世界に一つの固有の経験を生み出すものでもあるのでしょう。
他者は、私のために存在しているわけではない
個の固有性を認めると、他者についても重要な違いが生まれます。
他者は、私に何かを学ばせるためだけに存在しているのではありません。私の魂の成長のために配置された登場人物でもない。他者にも、その存在自身の固有性があります。
他者もまた、自分の視点から世界を経験している。私との出会いは私にとって一つの経験ですが、同時に相手にとっても一つの経験です。どちらか一方だけが主体なのではありません。
固有の存在と、固有の存在が出会っている。
だから関係は、片方のためだけに存在するものではなくなります。親子であっても、夫婦であっても、友人であっても、仕事上の関係であっても、そこには二つ以上の固有の世界が交差しています。
根源ではつながっていながら、それぞれはそれぞれの経験を生きている。この二重性があるから、人間関係はこれほど単純ではないのかもしれません。
一つであるなら、なぜ他者を完全には理解できないのか
ここには興味深いことがあります。根源では一つであるなら、なぜ私たちは他者を完全には理解できないのでしょう。
むしろ、この理解できなさそのものが、個の固有性を示しているようにも見えます。
私たちは他者について知ることができます。言葉を聞き、表情を見て、経験を想像し、共感することもできます。しかし、どれほど近づいても、その人そのものになることはできません。
相手の痛みについて知ることと、その痛みを相手として経験することは違います。相手が見ている世界について聞くことと、その視点から世界を見ることも違います。そこには最後まで残る固有性があります。
そして、その境界があるからこそ、理解しようとすることにも意味が生まれます。完全に同じなら、理解する必要はありません。最初からすべてが分かっているなら、尋ねる必要もない。
個であることは、他者との間に境界を生みます。しかし、その境界は、つながりを否定するものではありません。むしろ、異なる存在だからこそ、「つながる」という経験そのものが生まれます。
愛は、個があるから生まれるのか
ここまで来ると、愛という経験についても考えたくなります。
すべてが完全に一つで、何の違いもなく、何の境界もないなら、そこに現在私たちが経験している意味での「愛する」という行為はあるのでしょうか。
愛には、相手がいます。自分とは異なる存在がいる。その存在を知ろうとする。大切にする。近づこうとする。ときには離れることを受け入れる。
相手が自分ではないからこそ、自分の意思だけでは決められないものがあります。そして、その自由を持つ他者を、それでも大切にするという経験があります。
もちろん、これだけをもって「個が存在する目的は愛である」と結論づける必要はありません。それではまた、個の存在理由を一つの目的へ還元することになります。
ただ、個があることで初めて現れる経験の一つとして、愛があることは確かでしょう。
一なるものの中に固有性があるから、存在と存在のあいだに関係が生まれる。その関係の中で、愛も、葛藤も、理解も、誤解も、信頼も、喪失も経験されます。
個であることは、経験を狭くするだけではありません。個があるからこそ生まれる世界もあります。
「一へ帰る」とは、個を失うことなのか
この見方に立つと、「一なるものへ帰る」という表現も少し違って見えてきます。
もし個が一からの逸脱なら、帰るということは個を失うことになります。私という固有性が消え、すべてが区別のない一つへ戻る。
しかし、根源的一体性と個の固有性が最初から両立しているなら、その必要はありません。
帰るということは、個を消すことではなく、個でありながら一から切り離されていなかったことを知ることとも考えられます。
私は私である。あなたはあなたである。その違いは残る。しかし、その違いを「完全な分離」と受け取る必要がなくなる。
個であることと、一なるものにつながっていることを同時に知る。
もしそうであるなら、霊的な進歩とは個を捨てる方向へ進むことではなく、個としての経験を続けながら、自分が何から成り立っているのかをより広く知っていくことなのかもしれません。
個は、最後に消えるためにあるのではない
ここまでの考えをつなぐと、一つの見方が現れます。
個は、経験するために後からつくられた道具なのではない。一なるものから誤って切り離された存在でもない。最後に消滅して一へ戻るためだけの途中の状態でもない。
一なるものの中に、固有の存在が在る。
その固有性があるから、それぞれの経験がある。経験があるから、その存在に変化が生まれる。そして変化した存在は、またその存在として世界を経験する。
ここでは、「生きることそのものが目的であること」と「霊的に進歩していくこと」は矛盾しません。生きることが、そのまま経験することであり、経験することが、その存在の変化でもあるからです。
何か別の最終目的を達成するために生きているのではない。存在し、経験し、変化し、また経験する。その運動そのものが、スピリットとして生きることなのかもしれません。
なぜ「私」がいるのか
それでも最後に、「では、なぜそもそも固有の存在があるのか」と問うことはできます。
なぜ一なるものは、一なるものだけではなく、無数の固有性を含んでいるのか。
ここまで来ると、経験の目的から答えることはできません。「さまざまな経験をするため」と答えれば、再び「では、なぜさまざまな経験をする必要があるのか」という問いへ戻るからです。
むしろ、ここでは一度、因果関係を置かないほうがよいように思います。
存在は、一でありながら、多でもある。つながっていながら、固有でもある。
それが何かのためにつくられた状態なのではなく、存在そのもののあり方なのかもしれません。
そうであるなら、「なぜ私たちは個なのか」という問いへの答えも、目的の形ではなくなります。
何かをするために、私になったのではない。私は、私として存在している。そして、私として存在しているから、この場所からしか見えない世界を経験している。
あなたも、あなたとして存在している。だから、あなたからしか見えない世界がある。
その二つは根源では切り離されていない。それでも、同じものではありません。
一であることと、個であること。これまで反対のもののように見えていた二つは、もしかすると最初から同時に成立しています。
そう考えると、個であることは克服すべき分離ではなくなります。「私」であることを捨てなければ、一なるものへ近づけないわけでもない。
一なるものの中で、私は私として存在している。
その固有性を通して世界を経験し、他者と出会い、変化していく。そして、そのすべてを含めて、生きるということなのかもしれません。
参考資料
Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Plotinus” https://plato.stanford.edu/entries/plotinus/
Internet Encyclopedia of Philosophy, “Bhedabheda Vedanta” https://iep.utm.edu/bhedabheda-vedanta/
Internet Encyclopedia of Philosophy, “Advaita Vedanta” https://iep.utm.edu/advaita-vedanta/
Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Alfred North Whitehead” https://plato.stanford.edu/entries/whitehead/