Structure & Society

構造の理解・前提の描写

なぜ人類は同じことを繰り返すのか|文明という体験装置とHuman Nature

人類の歴史を眺めていると、ときどき不思議に思うことがあります。これほど長い時間を生きてきたのに、なぜ私たちは同じようなことを繰り返しているのでしょうか。

権力が生まれ、格差が生まれ、争いが起こる。そして古い秩序を壊し、自由を求める。ところが、その自由の中から、やがて新しい秩序が生まれます。新しい価値基準がつくられ、新しい役割が生まれ、それが当たり前になる。その世界に生まれた人々は、その仕組みを「最初から存在していた現実」のように受け取って生きていきます。

王が支配する社会が終わっても、権力そのものが消えたわけではありません。身分制度が弱くなっても、人間を序列化する仕組みがなくなったわけでもない。宗教的権威から自由になった社会でも、別の価値や制度が人間の生き方を規定するようになります。そのたびに、私たちは古いものから自由になったように見えます。それでも、しばらくするとまた新しい構造の中にいる。この繰り返しを見て、「人間は歴史から学ばない」「人類は愚かな存在だ」と考えることもできます。

しかし、本当にそうなのでしょうか。人間を、身体だけで完結する存在ではなく、スピリットが身体を通してこの世界を経験している存在として見るなら、人類史についての問いそのものが少し変わってきます。

文明とは、いつか完成させるべきものなのでしょうか。それとも、人間がこの世界でさまざまな経験をするために生み出されてきた、巨大な環境でもあるのでしょうか。この視点から眺めると、同じような構造を繰り返してきた人類の歴史が、少し違って見えてきます。

 

「なぜ人類は学ばないのか」という問い

過去を知ることができるのは、人間の大きな特徴です。戦争が何をもたらしたのか。権力が集中すると何が起きるのか。差別がどのようにつくられるのか。熱狂した集団がどれほど容易に個人の判断を飲み込むのか。歴史には、それを知るための膨大な記録があります。

それにもかかわらず、似た構造は何度も現れます。もちろん、まったく同じ歴史が反復されているわけではありません。時代によって制度も技術も価値観も異なります。それでも、支配と服従、所有と欠乏、競争と序列、集団への同調といった構造は、形を変えながら繰り返し現れてきました。

そこから「人間は歴史から学ばない」という評価が生まれます。たしかに、一人の人間が同じ失敗を何度も繰り返しているのなら、そこには学習の問題があると言えるでしょう。しかし、人類は一人の人間ではありません。

ある時代を生きた人々が経験したことを、次の時代に生まれた人々は知識として学ぶことができます。しかし、知識として知っていることと、自分自身がその状況の中に置かれることは同じではありません。権力について学んだ人間も、実際に権力を手にすれば、その中で初めて経験することがあります。戦争の歴史を知る人間も、自分が属する社会が危機に直面すれば、恐怖や同調や敵意の中で判断することになる。所有への執着について理解していても、自分の生活や地位を失う可能性に直面すれば、知識とは別の反応が生まれます。

人類史を「人類という一人の生徒が、同じ問題を何度も間違えている」と見ること自体に、少し無理があるのかもしれません。

 

文明を「進歩するもの」として見る

私たちは文明を、基本的には進歩するものとして捉えています。過去より現在のほうが技術は進み、知識は増え、制度は改善される。問題があれば修正し、より自由で、より安全で、より合理的な社会へ進んでいく。その延長線上には、いつか現在より完成された文明があるように見えます。

この見方では、同じ問題が繰り返されることは失敗になります。戦争が再び起きれば「まだ人類は学んでいない」。格差が広がれば「社会は進歩していない」。新しい権力構造が生まれれば「また同じことを繰り返している」。文明には到達すべき状態があり、そこへ近づけない人類は未熟だという見方です。

けれども、文明にそもそも一つの完成形があるのでしょうか。もちろん、人間が苦痛を減らし、よりよい制度をつくろうとしてきたことには意味があります。実際に、その積み重ねによって変わってきたものもあります。ただ、それとは別に、文明そのものを「人間がさまざまな条件の中で生きるための環境」として見ることもできます。

ここで「進歩」という一本の線から少し離れてみると、人類が似た構造を何度もつくってきたことにも、別の側面が見えてきます。

 

身体だけではつくれない経験がある

Office Human Natureでは、人間を身体だけで完結する存在とは捉えていません。スピリットが身体を通してこの世界を経験している。その認識を、探究を始めるための基点に置いています。

身体を持つことによって、私たちは特定の条件の中へ入ります。一度に一つの場所にしかいられない。未来を完全には知ることができない。他者が何を感じているのかを直接には知ることができない。身体は疲れ、傷つき、老い、そして死を迎えます。

しかし、人間がこの世界で経験している制約は、身体だけから生まれているわけではありません。貨幣があります。国家があります。家族があります。職業があります。法律があります。所有があります。教育があります。組織があります。社会的な評価があります。文化や言語があり、「普通はこうする」という無数の暗黙の前提があります。

これらは自然界に最初から存在していたものではありません。長い時間をかけて人間がつくり、受け継ぎ、維持してきたものです。しかし、その社会の中に生まれた人間にとって、それらは容易には「人間がつくった仕組み」として感じられません。お金がなければ生きていけない。働かなければならない。学校へ行く。仕事に就く。土地には所有者がいる。国境の向こう側は別の国である。ある年齢になればこう生きる。一定の能力を持つ人間が高く評価される。

それらは、あまりにも早い時期から私たちの周囲に存在しているため、制度ではなく現実そのものに見えてきます。

 

文明は「第二の制約」をつくる

身体によって生まれる条件を第一の制約とするなら、文明はその上に、もう一つの条件を重ねていると見ることができます。身体があることで、時間、空間、生死という条件の中へ入る。そして文明の中に生まれることで、所有、役割、評価、規範、権力、交換、所属といった条件の中へ入る。

その結果、人間は単に「身体を持つ存在」としてではなく、非常に具体的な人生を経験することになります。経営者になる。会社員になる。親になる。教師になる。貧しい家庭に生まれる。豊かな家庭に生まれる。社会から評価される。評価されない。権力を持つ。誰かに従う。財産を手に入れる。失う。競争に勝つ。敗れる。こうした経験の多くは、文明という環境がなければ、少なくとも現在と同じ形では成立しません。

そして重要なのは、その環境の中で生きているうちに、人間が役割や評価と自分自身を重ねていくことです。「私は会社員である」という社会的な事実が、「会社員であることが私である」へ変わる。「私は評価された」が、「評価される私は価値がある」へ変わる。「私は多くを所有している」が、「所有しているものが私の価値を示している」へ変わる。

外側につくられた構造が、やがて内側の自己認識にまで入り込んでいく。そう考えると、文明は人間が生活するための仕組みであるだけではありません。人間が「自分とは何者なのか」を経験する環境にもなっています。

 

構造を壊せば、人間は自由になるのか

社会の構造が人間を縛っていると気づけば、それを壊したくなることがあります。所有から離れる。会社から離れる。社会的評価を拒む。既存の価値観を疑う。制度そのものから自由になろうとする。

映画『ファイト・クラブ』が描いた世界にも、その衝動を見ることができます。消費によって自分を定義し、企業社会の中で生きる人間が、その世界を破壊することで自由を取り戻そうとする。しかし、ここで映画そのものを論じたいわけではありません。興味深いのは、その先です。

仮に、すべてを壊したとします。翌朝、人間は何をするのでしょうか。食べなければなりません。眠る場所が必要です。複数の人間がいれば、誰が何をするのかを決める必要が出てくる。食料をどう分けるのか。土地をどう使うのか。争いが起きたときにどうするのか。子どもをどう育てるのか。

そこから役割が生まれます。ルールが生まれます。交換が生まれます。意思決定の方法が生まれます。そして、それを維持するための制度が生まれる。最初は便宜のためにつくられた仕組みでも、何世代か経てば、その中に生まれた人々にとっては「世界とはこういうものだ」という現実になります。

構造を一度壊したからといって、人間が構造のない世界に生きるようになるわけではありません。

 

それは、人間が愚かだからなのか

ここだけを見ると、「結局、人間は同じことを繰り返す」と言いたくなります。自由を求めて制度を壊したのに、また制度をつくる。権力から解放されたのに、また新しい権力を生み出す。所有を否定したのに、別の形の所有が生まれる。

しかし、人間が共同で生きる以上、何らかの秩序が生まれること自体は不思議ではありません。そして、人間がこの世界を経験する存在であるというところから見るなら、同じような構造が現れることを、ただ「失敗」と呼ぶだけでは捉えきれないものがあります。

新しい制度が生まれれば、新しい条件が生まれます。新しい条件が生まれれば、そこでしか経験できない人生が生まれる。そして、その世界へ新しい人間が生まれてくる。以前の世代がある構造について理解したからといって、次の世代がその構造の中で経験することまでなくなるわけではありません。

人類は、一人の生徒ではないからです。

 

世界は学校なのか、体験の場なのか

世界を「魂の学校」と表現する考え方があります。経験し、学び、成長し、本来の自己へ近づいていく。この比喩が捉えているものは確かにあります。

一方で、学校という言葉には、どうしても「正解へ到達する」「課程を終える」「卒業する」という意味が入りやすくなります。そのため、人類史そのものを学校として捉えると、争いや葛藤を繰り返している人類が、いつまでも卒業できない生徒のようにも見えてきます。

しかし、この世界で重要なのが、知識として何かを理解することだけではなく、それを実際に経験することでもあるなら、少し見え方が変わります。知っていることと、経験することは同じではありません。愛について知ることと、誰かを愛することは違う。喪失について理解することと、大切なものを失うことは違う。権力について学ぶことと、実際に権力を持つことも違います。

そして、経験の中で自分が何と同一化し、何を恐れ、何を手放し、何を思い出していくのかという過程もまた、知識だけでは置き換えられません。そう考えるなら、この世界を「学校」と「体験場」のどちらか一方に決める必要はないのかもしれません。

経験することと、その経験を通して本来の自己へ戻っていくこと。それらは、必ずしも別の方向を向いているわけではありません。

 

制限の中でしか経験できないもの

では、スピリットが身体よりも広い存在であるなら、なぜ制限された身体を通して世界を経験するのでしょうか。ここから先について、私たちはまだ十分に知っているわけではありません。ただ、制限があることで初めて成立する経験があることは考えられます。

未来を完全に知ることができないから、選択する。相手の心を完全には知ることができないから、信頼する。失う可能性があるから、大切にする。時間が限られているから、何かを選び取る。もしすべてを最初から完全に知り、何も失われず、何も分離していないことを常にそのまま経験しているなら、この世界で生じている多くの経験は、現在とはまったく異なるものになるでしょう。

だからといって、「制限はこの目的のためにつくられた」とまで断定することはできません。ただ、身体を持ち、限られた視点から世界を見ることと、この世界で生じる経験との間には、無視できない関係があるように思います。

 

AIが壊し始めた、現在の文明の制約

この視点から現在のAIを見ると、別の問題が見えてきます。現在の文明では、仕事、能力、知識、生産性、社会的評価といったものが、人間の自己認識と深く結びついています。「何をしている人なのか」「何ができる人なのか」「どれだけ知っているのか」「どれだけ社会に貢献しているのか」が、その人自身の価値と重ねられやすい社会です。

ところがAIは、その前提を揺らし始めています。知識を持つことの希少性が変わる。文章を書くこと、分析すること、企画すること、画像をつくること、プログラムを書くことにもAIが入る。ロボティクスまで進めば、物理的な労働についても同じことが起こり得ます。

これは単なる雇用問題ではありません。現在の文明が人間に与えてきた「あなたは何者なのか」という答えの一部が、成立しにくくなっていくということでもあります。仕事ができることを自分の価値だと思っていた人の前で、AIがその仕事を行う。知識を持っていることを自分の価値だと思っていた人の前で、機械が膨大な知識を扱う。

そのとき揺らいでいるのは、人間そのものなのでしょうか。それとも、仕事や能力や知識と自分自身を重ねてきた、これまでの自己認識なのでしょうか。

 

しかし、その先に「自由な人類」が完成するとは限らない

ここで、「ではAIによって古い自己同一化が崩れ、人類はHuman Natureへ戻っていくのだ」と結論づけるのは早いでしょう。古い制約が弱まれば、人間は新しい環境をつくります。そして新しい環境には、新しい制度と価値基準が生まれます。

AIが労働から人間を解放する一方で、人間がAIへ判断を委ねる社会が生まれるかもしれません。知識を覚える必要がなくなる一方で、AIが提示した情報を通してしか世界を見なくなる可能性もある。人間を管理していた古い組織が弱くなる一方で、巨大なデジタルシステムが生活の基盤になることも考えられます。

つまりAIは、古い制約を壊す存在であると同時に、新しい制約を生み出す可能性も持っています。そこではまた、自分で判断するとは何なのか、便利さと自由は同じなのか、自分よりはるかに多くの情報を扱う知性へどこまで判断を委ねるのか、自分が直接世界を見ることとAIによって解釈された世界を見ることにはどんな違いがあるのか、といった別の問いが生まれるでしょう。

文明が変われば、人間が経験する条件も変わります。

 

文明は終わるのではなく、舞台を組み替えるのかもしれない

AIについて考えていると、現在の文明がこれまで追求してきたものを、AIがさらに先へ進めているように見えることがあります。効率、知識、生産、予測、制御、最適化。これらを極端なところまで進めていけば、現在の社会で人間に求められている役割の一部は、少しずつ必要ではなくなっていくでしょう。

ただ、それを「文明の終わり」と呼ぶべきなのかは分かりません。一つの舞台装置が役割を終え、別の舞台装置へ組み替えられていく、と見ることもできます。

労働を中心にした文明から、別のものを中心にした文明へ。知識を所有することに価値があった文明から、知識が広く利用できる文明へ。人間が社会の知的処理の大部分を担っていた文明から、人間と人工知能が複雑に社会を構成する文明へ。その世界へ生まれた人間は、現在とは違うものを「当たり前」として生きることになるでしょう。

そして、その中でもまた誰かが問い始めるのかもしれません。これは本当に私なのか。この価値は、本当に私の価値なのか。この世界の前提は、本当に絶対なのか。

 

レムリアを「失敗した文明」と見ないとしたら

文明について考える中で、レムリアという言葉が浮かぶことがあります。レムリアは、歴史学や考古学によって実在が確認されている古代文明ではありません。現在語られているレムリア像には、19世紀に提案された仮説上の陸地と、その後の神智学やさまざまな霊的思想の中で形成されてきた物語が重なっています。

そのため、レムリアが実際にどのような文明で、なぜ終わったのかを歴史的事実として語ることはできません。一方で、霊的な領域では、レムリアは単なる架空の物語としてではなく、過去の文明や人類の記憶と結びつけて語られてきました。その実在性を現在の歴史学によって確定することはできませんが、ここでその可能性まで否定する必要もないでしょう。

いま注目したいのは、レムリアが実在したかどうかを決着させることではありません。もし文明が、人間が特定の条件の中で経験するための環境でもあるなら、一つの文明が終わることを、ただ「失敗」と見る必要があるのかということです。

ある文明が役割を終え、その後に別の文明が生まれる。また人間が集まり、関係を結び、価値をつくり、制度をつくる。そして、その中に生まれた人々が、新しい条件の中で人生を経験する。文明史をそのように見るなら、「理想社会へ向かって失敗を克服し続ける歴史」とは別の見方が生まれます。

異なる舞台が現れ、その中で異なる経験が生まれてきた歴史です。

 

全員が同じ場所へ進む必要はない

文明の転換を考えるとき、「人類全体が同じ意識段階へ進化する」という物語には注意が必要です。人間がそれぞれ異なる経験をしているのであれば、すべての人が同じ時期に同じ認識へ到達する必要があるとは限りません。

ある人は社会的な成功を追求する。ある人はそれを失う。ある人は家庭を通して経験する。ある人は組織の中で経験する。ある人は社会の構造そのものを見つめる。それらを単純な上下関係に並べる必要もないでしょう。

「気づいた人」と「気づいていない人」に人間を分け、前者を上に置いた瞬間、「気づいている私」という別の自己像が生まれます。そして、その自己像を握っているのであれば、それもまた自分自身と何かを同一化している状態です。霊的な探究そのものが、新しいエゴの形になることもあります。

だからこそ、Human Natureについて考えるとき、何を知っているかだけではなく、その知識を持っている「私」をどのように経験しているのかまで見ていく必要があります。

 

Human Natureは、文明の先にあるものではない

Human Natureは、文明が十分に進歩した未来に、人間が新しく獲得するものではありません。社会構造をすべて壊したときに初めて生まれるものでもない。AIによって労働から解放された人類が、未来に到達する完成状態でもありません。最初から在るものです。

しかし、この世界で生きる中で、その上にさまざまなものが重なっていきます。身体があります。名前があります。家族があります。国籍があります。職業があります。所有があります。評価があります。成功と失敗があります。記憶があります。信念があります。自分について語っている物語があります。そして、それらを経験しているうちに、人間は、それらと自分自身を重ねていきます。

仕事を失えば、自分まで失ったように感じる。評価されなければ、自分そのものに価値がないように感じる。自分について信じてきた物語が崩れれば、自分が誰なのか分からなくなる。けれども、そのとき失われたものは、本当に自分そのものなのでしょうか。

「これがなくても、私はいる」。その認識が生まれたとき、自分だと思っていたものと、それを経験している存在との間に、わずかな距離が生まれます。社会によって形成された自己像から距離が生まれることは、Human Natureへ戻っていく過程の一部なのだと思います。

ただし、それだけですべてが終わるわけではありません。社会的役割を手放しても、「自由になった自分」を握ることがある。知識を手放しても、「何も知らない自分」を新しい自己像にすることがある。霊的な理解を深めても、「理解している自分」が残ることがあります。何を自分だと思っているのか。その同一化は、社会的な層だけに存在しているわけではありません。

 

覆われることも、体験の一部なのか

Human Natureを覆っているものを見ると、それを取り除くべきものだと考えたくなります。社会構造、役割、価値観、自己像、エゴ。しかし、それらを単純に「本来の自己を邪魔する敵」として扱うだけで、本当にこの世界で起きていることを捉えられるのでしょうか。

自分を役割だと思って生きることと、それが自分そのものではなかったと気づくこと。何かを所有することで自分の価値を確かめようとすることと、それを失ったあとにも自分が存在していると知ること。分離の中で生きることと、その中で自分と他者との関係を経験すること。これらは、最初からすべてを理解している状態とは異なる経験です。

だから、覆われることそのものにも意味があるのかもしれません。ただ、ここにはまだ大きな問いが残っています。なぜ私たちは本来の自己を見失うのか。どこまでが身体を持つことによって生じ、どこまでが社会や経験によって形成されるのか。エゴとは何なのか。そして、人間がそれらを手放し、本来の自己へ戻っていくとは、実際には何が起きていることなのか。

社会構造を見ることは、その問いへ近づく一つの入口です。しかし、社会構造だけですべてを説明することはできません。

 

それなら、社会を変える意味はないのか

文明が経験の環境でもあり、構造の中で生きること自体にも意味があるのだとすれば、「では、社会の問題を変える必要はないのではないか」という問いも生まれます。しかし、そうは思いません。

苦痛を減らすことにも意味があります。不当な制度を変えることにも意味がある。誰かを助けることも、よりよい社会をつくろうとすることも、人間がこの世界で行う経験の一部です。重要なのは、世界を変えることと、世界を完成させることを同じにしないことです。

私たちは、その時代に見えている問題へ関わることができます。制度を修正し、新しい仕組みをつくり、苦痛を減らすことができる。しかし、その結果として生まれた新しい社会にも、新しい条件があります。そして、そこでは別の問題が生まれ、別の経験が始まるでしょう。

だからといって、変えたことが無意味になるわけではありません。世界を完成させなくても、目の前の世界へ関わる意味は失われないからです。

 

人類は、同じことを繰り返しているのか

最初の問いへ戻ります。なぜ人類は、同じことを繰り返すのでしょうか。人間が愚かだから。歴史から学ばないから。権力を求める性質があるから。それぞれの出来事を説明するとき、そうした要因が関係していることはあるでしょう。しかし、人類史全体をそれだけで説明することはできません。

人類は、一人の人間が同じ失敗を何度も繰り返しているわけではありません。ある人は権力を持つ側から経験する。ある人は従う側から経験する。ある人は制度をつくる。ある人は制度に疑問を持つ。ある人はそれを壊し、ある人はその後に新しい制度をつくる。世代が変われば、また別の人間がその舞台へ入ってきます。

そして、似た構造の中でも、一人ひとりが経験していることは同じではありません。このことを考えると、人類史に繰り返し現れる構造を、単純に「いつまで経っても正解へ到達できない人類の失敗」とだけ見る必要はないように思います。

文明は変わります。舞台装置も変わります。その中で人間は、自分を何者かだと思い、世界と関係を結び、喜び、苦しみ、選択し、失い、ときどき自分が立っている舞台そのものに気づきます。そこでは、社会の歴史と、一人ひとりの内側で起きていることが重なっています。

 

世界から舞台装置をなくす必要はない

Human Natureへ戻ることは、すべての制度をなくすことでも、すべての制約から逃れることでも、完全な文明をつくることでも、人類全体を同じ認識へ導くことでもないのでしょう。

文明はこれからも形を変えるはずです。AIによって現在の仕組みが大きく変われば、その先には新しい制度、新しい価値、新しい自己同一化が生まれるかもしれません。そして人間は、その中でまた経験していきます。

世界から舞台装置そのものをなくす必要はない。ただ、その舞台装置と自分自身を、完全に同じものだと思わなくなることはできます。仕事をしていても、仕事そのものが自分ではない。社会の中にいても、社会から与えられた役割だけが自分ではない。所有していても、所有物が自分ではない。評価されても、評価が自分ではない。

しかし、その認識もまた終点ではありません。社会によって形成された自己像の奥には、経験によって形成された自己があります。信念があります。記憶があります。恐れがあります。欲求があります。そして、それらを「私」として握っているものがあります。

社会構造を見ることによって、その一部は見えるようになります。けれども、その先にはまだ、人間の内面そのものについての問いが残っています。何が形成されたもので、何がHuman Natureなのか。エゴを手放していくとは、何が手放されていくことなのか。そして、それらが静かになったとき、何が残るのか。

文明という巨大な構造を見つめることは、結局のところ、人間の外側だけを研究することではないのだと思います。人間がどのような世界をつくり、その世界によって何を自分だと思うようになり、その中で何を経験しているのかを見ることです。

人類が同じことを繰り返しているように見える歴史の中には、社会構造の反復だけではなく、存在と自己同一化をめぐる、もっと深い問いが流れているのかもしれません。文明は、その問いが何度も異なる形で現れる、巨大な体験装置なのではないでしょうか。

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