
幻想と知りながら、この世界で誠実に働く 現実と霊性は対立しない.
過去に書いた、人材育成や教育に関する文章を読み返していました。そこには、当時の自分なりの問いがありました。
人はどのように育つのか。
教育とは何をしているのか。
組織や仕事の中で、人は何を受け取り、何を失い、何に適応していくのか。
当時も、浅いところを見ていたわけではありません。むしろ、そのときの私なりに、人や場が変化していく過程を真剣に見つめていました。けれど、いま読み返すと、ひとつはっきり感じることがあります。
見ている景色が、変わっている。
扱っているテーマがまったく別のものになった、ということではありません。
仕事、教育、組織、人間関係、社会の構造。
そうしたものへの関心は、いまも変わっていません。変わったのは、見ている階層です。
以前は、現実の中で起きていることを見ていました。
人材育成、教育、マネジメント、組織づくり、働き方。
そこにある問題や可能性を、現実の文脈の中で捉えようとしていました。いまは、そのさらに奥を見ています。
そもそも人間とは何か。
私たちは何を前提に世界を見ているのか。
認識はどのように形づくられるのか。
なぜ、その現実を自分のものとして体験しているのか。
同じ領域を見ているようで、実際には、まったく違う場所から見ている。
成長とは、知識が増えることだけではない
この変化を、私は単に「知識が増えた」とは感じていません。
もちろん、学んできたことはあります。
経験してきたこともあります。
言葉にできることも増えました。けれど、本質的な変化はそこではないように思います。
以前よりも、矛盾して見えるものを同時に見られるようになった。そのことの方が大きいのです。
現実と霊性。
構造と自由。
責任と手放し。
事業と幻想。
かつては、それらがどこか対立しているように見えていたのかもしれません。
現実を大切にするなら、霊性から離れてしまう。
霊性を深めるなら、現実から距離を置かなければならない。
責任を果たすなら、自由は遠のく。
手放すなら、現実への関与も薄くなる。
しかし、いまは少し違います。矛盾して見えるものを、どちらか一方に片づけなくてもよいのだと感じています。
現実を生きながら、霊性を見失わない。
構造を見ながら、自由を忘れない。
責任を引き受けながら、執着しない。
事業を行いながら、それすらもひとつの体験であると知っている。
成長とは、何かひとつの正解に近づくことではなく、以前なら分けていたものを、より広い場所で同時に抱えられるようになることなのかもしれません。
責任を持つ人に必要な深さ
振り返ると、これは大人になってから急に始まったことではありませんでした。子どもの頃、一緒に遊んでいた友人たちの家庭を思い返すと、その親の多くが何らかのお店を経営していたり、教師だったりしました。当時はもちろん、そんなことを意識していたわけではありません。けれど、いま振り返ると、私はかなり早い段階から、責任を持つ人たちの空気に自然と触れていたのだと思います。
経営する人。
教える人。
判断する人。
人を導く人。
何かを背負う人。
そうした人たちの持つ独特の緊張感や責任感、あるいは言葉にならない重さのようなものに、無意識のうちに触れ続けていたのかもしれません。大人になってからも、その流れはどこか一貫していました。
過去を振り返ると、Office Human Nature の原点にも、その流れがありました。立ち上げ当初から、私は人材育成や組織づくりといったテーマに関心を持ち、小規模事業者の方々と関わる機会がありました。また、振り返れば、私の周囲には自然と、経営者や士業など、責任を持って現実と向き合っている人たちが多くいました。
経営者、管理職、専門職。
何かを判断し、人や場に影響を与え、日々の現実を動かしている人たちです。そうした立場にいる人は、理想論だけでは生きられません。美しい言葉だけでは、人も組織も現実も動かないからです。一方で、現実対応だけを続けていると、いつの間にか自分自身がすり減っていくこともあります。
売上、評価、役割、責任、期待、成果。
そうしたものに応え続けるうちに、自分が何を信じ、何を恐れ、何に縛られているのかが見えにくくなることがあります。だからこそ、責任を持つ人には、現実を否定しない深さが必要になるのだと思います。
現実から逃げるための霊性ではなく、現実をより深く見るための霊性。
仕事を軽く扱うためではなく、仕事の中で自分が何に同一化しているのかを見つめるための霊性。
責任を捨てるためではなく、責任に飲み込まれないための霊性。
それは、現実を離れた場所にあるものではありません。むしろ、現実を深く見つめた先に現れてくるものです。
構造から入り、霊性へ触れていく
この場所では、人間理解、認識、社会構造、霊性といったテーマを扱っています。一見すると、それらは別々のものに見えるかもしれません。けれど、私の中では分かれていません。
仕事の違和感を見つめると、組織の構造が見えてきます。
組織の構造を見つめると、評価や役割の前提が見えてきます。
評価や役割の前提を見つめると、自分が何を信じ、何に価値を預けているのかが見えてきます。
そして、その先で問われるのは、結局、人間とは何かということです。
私たちは、自分だと思っているものをどのように作り上げているのか。
何を握りしめ、何を恐れ、何を失うまいとしているのか。
構造を見ることは、社会を批判するためではありません。構造を見ることは、自分がどのような前提の中で生きているのかを知るためです。
その前提が見えたとき、少しずつ同一化が緩んでいきます。そして同一化が緩んだ場所に、これまでとは違う自由が生まれます。
入口は、仕事や教育や社会構造であってもよいのです。
そこから、人間理解へ向かう。
認識へ向かう。
意識へ向かう。
そして、そのさらに奥で、霊性へ触れていく。私にとって、それらは別々の道ではありません。
幻想とは、社会だけの話ではない
探究が深まるほど、この世界で絶対だと思っていたものの多くが、絶対ではなかったことに気づいていきます。
お金。
肩書き。
評価。
成功。
失敗。
資格。
役割。
正しさ。
それらは、確かに現実の中で力を持っています。
無視できるものではありません。社会の中で生きている以上、それらは日々の判断や生活に深く関わっています。けれど、それらは究極の実在ではありません。もっと言えば、私たちが強く握りしめている幻想は、社会制度だけではありません。
自分はこういう人間だ。
成功とはこういうものだ。
失敗したら終わりだ。
認められなければ価値がない。
役に立たなければ意味がない。
そうした、内側に入り込んだ前提の方が、むしろ深く私たちを縛っていることがあります。
幻想とは、外側の仕組みだけを指す言葉ではありません。
自分だと思って握りしめているもの。その多くもまた、作られたものです。だからこそ、構造を見ることと、内面を見ることは分けられません。
外側の構造を見つめることは、内側の同一化を見ることでもあります。内側の同一化を見ることは、この世界をどのように体験しているのかを見つめることでもあります。
幻想と知りながら、この世界で誠実に働く
すべては幻想である。
この言葉は、簡単に使うと、とても危ういものになります。
幻想だから、どうでもよい。
幻想だから、努力しなくてよい。
幻想だから、責任を持たなくてよい。
そういう話ではなく、むしろ幻想であることを知るほど、この世界での関わり方は静かに問われます。
何に執着しているのか。
何を恐れているのか。
何を自分の価値だと思い込んでいるのか。
そして、それらを見つめた上で、なお、この世界で何をするのか。
誠実に働く。
誠実に関わる。
誠実に価値を届ける。
それは、幻想に飲み込まれることとは違います。幻想だと知りながら、その中で与えられた現実に丁寧に参加することです。
この世界は幻想である。
それでも、この世界で出会う人、引き受ける仕事、届ける言葉、果たす責任を、軽くは扱わない。
幻想と知りながら、この世界で誠実に働く。
その感覚を、以前より少しだけ理解できるようになりました。そして、Office Human Nature で見つめていることも、きっとそこにつながっています。
現実を否定しない。
けれど、現実を絶対視もしない。
構造を見る。
けれど、構造の中に閉じ込められない。
責任を果たす。
けれど、責任と自分を同一化しない。
そのようにして、この世界を生きること。その静かな場所に、人間理解と霊性が出会う地点があるのだと思います。