
ジョージア・ガイドストーンの10の指針はどこから来たのか|ゲリー・ボーネルの証言と匿名の制作集団を追う
ゲリー・ボーネル氏が、2025年に興味深いことを書いていました。
かつてアメリカ・ジョージア州に存在した巨大な石碑「ジョージア・ガイドストーン(Georgia Guidestones)」。そこには、人類の未来に向けた10の指針が八つの言語で刻まれていました。その第一の指針は、「人類を5億人未満に維持し、自然との永続的な均衡を保つ」というものです。
ボーネル氏によれば、自分自身がこの石碑の制作過程に関わっていたといいます。しかも、単に計画を知っていたという話ではありません。もう一人の人物とともに10の指針をまとめ、自分はアカシャから情報を得る役割を担っていたというのです。
私は以前、ボーネル氏が語る2057年について調べる中で、この記述に出会いました。2057年には人類の人口が大きく減少し、その後に残る人々がガイドストーンの意味を理解するようになる。ボーネル氏は、そのような文脈の中でガイドストーンについて語っています。
そこで気になったのが、そもそもこの10の指針は、誰が、どのように作ったのかということでした。
調べていくと、ジョージア・ガイドストーンについて一般に語られている「正体不明の人物が作った謎の石碑」という説明だけでは見えてこないものがありました。建設直後の資料、制作会社が残した記録、発案者を名乗る人物が後に出版した本、正体を追った後年の調査、そしてボーネル氏の証言。それらを時系列に並べると、わかることと、現在も埋まらない部分がかなりはっきりしてきます。
本記事では、建設当時に残された資料、オンラインで確認できる歴史資料、関係者や本人が公開している文章など、実際に内容を確認できる資料を中心に、その成立過程を辿っていきます。
※ 本記事は、一部を無料で公開しています。続きは有料でお読みいただけます。
1980年、巨大な石碑がジョージア州に現れた
ジョージア・ガイドストーンは、1980年3月22日、アメリカ南東部ジョージア州エルバート郡で公開されました。地元の花崗岩会社Elberton Granite Finishing Companyが施工し、高さは約5.9メートル、使用された花崗岩の総重量は約119トン。中央の石を四枚の巨大な立石が囲み、その上に天板が載せられていました。
構造には天文学的な機能も組み込まれていました。中央部分には北極星を確認するための仕組みがあり、別の部分では太陽の動きや時刻を知ることができるよう設計されていました。単に文章を残すための石碑ではなく、長い時間を耐えることを意識して作られた巨大な構造物でした。
四枚の立石には、英語、スペイン語、スワヒリ語、ヒンディー語、ヘブライ語、アラビア語、中国語、ロシア語で同じ10の指針が刻まれました。天板にはさらに、サンスクリット、バビロニアの楔形文字、古典ギリシャ語、エジプトのヒエログリフで、「これらを理性の時代への道標とせよ」という趣旨の言葉が置かれていました。
石碑に刻まれた10の指針は、次のとおりです。以下は英語の碑文を日本語に訳したもので、意味が複数に解釈できる部分については、できるだけ原文の表現を残しています。
- 人類の人口を5億人未満に維持し、自然との永続的な均衡を保つ。
- 生殖を賢明に導き、適応度と多様性を高める。
- 生きた新しい言語によって、人類を結びつける。
- 情熱、信仰、伝統、そしてあらゆるものを、節度ある理性によって統御する。
- 公正な法律と正義にかなった裁判所によって、人々と国家を守る。
- すべての国家が国内を自ら統治し、国家間の争いは世界法廷で解決する。
- 些細な法律や無用な役人を避ける。
- 個人の権利と社会的な義務の均衡を保つ。
- 真実、美、愛を尊び、無限なるものとの調和を求める。
- 地球にとって癌のような存在になるな。自然のための余地を残せ。自然のための余地を残せ。
なお、第二の指針にある「適応度」は、原文では「fitness」と記されています。一般的には健康や体力を意味することもありますが、生物学では、生存や生殖を通して遺伝的な性質が次世代に受け継がれる度合いに関係する概念です。この言葉がクリスチャンの思想の中でどのように使われているのかについては、後述する『Common Sense Renewed』の内容とあわせて見ていきます。
第一、第二の指針だけを見れば、人口や生殖を強く意識した石碑に見えます。しかし全体を読むと、それだけではありません。政治、法律、国家、言語、自然、人間の生殖、個人の自由、精神的価値までを含んだ、一つの文明設計のようなものが置かれています。
「R. C. Christian」は最初から偽名だった
この石碑を依頼した人物は、R. C. Christian(R・C・クリスチャン)と名乗っていました。
1979年、クリスチャンはElberton Granite Finishing Companyを訪れ、社長のJoe H. Fendley(ジョー・H・フェンドリー)に巨大な花崗岩の記念碑を作りたいと申し出ます。ところが、クリスチャンという名前は本名ではありませんでした。
資金の仲介を依頼されたGranite City Bankの頭取Wyatt Martin(ワイアット・マーティン)は、偽名の人物から巨額の事業を引き受けることはできないとして、クリスチャンに本名を明かすよう求めました。クリスチャンは守秘を条件に本名を伝え、マーティンは本人確認を行ったうえで計画に協力します。その後マーティンは、クリスチャンの本名を公表しませんでした。
ここまでは比較的よく知られています。しかし重要なのは、クリスチャンが最初から「自分一人だけの計画」と説明していたわけではないことです。
Georgia Ports Authority(ジョージア港湾局)の公式刊行物『Georgia AnchorAge』が1984年に掲載した記事では、クリスチャンは「忠実なアメリカ人の小さな集団」を代表していると説明しており、再び現れた際には木製模型を持参し、その集団が計画を20年間構想してきたと語ったことが記録されています。
さらに、1981年に施工会社側が刊行した『The Georgia Guidestones』でも、石碑はある集団が未来のために残そうとした記念碑として説明され、クリスチャンはその表に立つ人物として現れます。
つまり、「ガイドストーンの背後には匿名の人々がいた」という話は、後世になって生まれた噂だけではありません。少なくとも、石碑が作られた当時から、そのような説明が残されています。
ここまでは、ジョージア・ガイドストーンがどのように建てられ、その背後にR・C・クリスチャンという偽名の人物と、匿名の集団が存在していたことを見てきました。では、石碑に刻まれた10の指針そのものは、どこから来たのでしょうか。ここから先では、建設時に残された資料、八言語への翻訳過程、クリスチャン自身が後に出版した本、ゲリー・ボーネル氏の証言、そしてR・C・クリスチャンの正体をめぐる後年の調査まで辿りながら、10の指針が形成された過程を追っていきます。