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内面の探究・人間存在の考察

人間を理解するとはどういうことか|学問と経験、その先にある探究

人間を理解するとは、どういうことでしょうか。

私たちは、人間についてさまざまなことを知っています。身体や脳の働き、心理や行動、社会や文化の成り立ちなど、学問によって明らかにされてきたことは数多くあります。しかし、人間について知識を持つことと、人間を理解することは、必ずしも同じではありません。私たちは、学問を通してだけ人間を理解しているわけではないからです。

人と関わり、社会の中で働き、喜びや悲しみを経験する。街を歩きながら人々の振る舞いを観察したり、映画や文学作品に触れて、登場人物の感情や選択について考えたりすることもあります。何気ない会話や風景から、それまで気づかなかった人間の一面が見えてくることもあるでしょう。

こうした経験や観察、思索の中から生まれる理解と、学問によって得られる知識は、どのような関係にあるのでしょうか。

 

学問として人間を理解すること

人間を学術的に探究する営みの一つに、人間科学があります。

人間科学は、心理学や社会学、教育学など、複数の学問分野の知見や研究方法を用いながら、人間と社会を総合的に捉えようとする学際的な領域です。例えば、大阪大学人間科学部では、行動学、社会学、教育学、共生学などを通して、人間や社会を多角的に探究しています。人間科学に限らず、哲学や歴史学、文化人類学、神経科学なども、それぞれ異なる方法によって人間への理解を深めてきました。

学問の重要な特徴は、個人の印象や経験だけに依存せず、それぞれの分野に応じた方法によって問いを検討し、根拠や妥当性を確かめようとするところにあります。ただし、学問が扱うのは、数値として測定できるものだけではありません。人間が経験する意味や、歴史的・社会的な文脈、文化によって異なる価値観なども、学術的な探究の対象です。

ドイツの哲学者Wilhelm Dilthey(ヴィルヘルム・ディルタイ)は、人間の歴史や社会を理解するうえで、出来事の因果関係を説明することに加え、人間が生きる中で経験する意味や、その歴史的なつながりを捉えることを重視しました。人間を理解するとは何かという問題は、学問そのものの内部でも、長く考えられてきたのです。

 

経験すること、観察すること、洞察すること

一方で、学問と経験は、そもそも同じ種類のものではありません。学問は、問いを立て、方法を用い、根拠を検討しながら知識を形成していく営みです。それに対して経験は、人間が実際に何かを生き、感じ、認識することです。

例えば、悲しみについて研究することと、自分自身が深い悲しみを経験することは同じではありません。心理学によって悲しみの仕組みを知ることもできれば、哲学によって悲しみの意味を考えることもできます。しかし、実際に悲しみを経験した人が、その経験を通して何に気づき、何を理解するのかは、また別の問題です。

また、私たちは自分自身が直接経験していない出来事からも、人間について考えることができます。映画や小説の登場人物に共感したり、その選択に違和感を覚えたりすることがあります。異なる時代や文化を描いた作品を通して、それまで知らなかった価値観に触れることもあります。作品を鑑賞すること自体が一つの経験であり、そこから人間や社会についての問いが生まれることもあるでしょう。

日常の観察も同様です。人々の振る舞いや、何気ない会話、社会の中で繰り返されている出来事を見つめているうちに、その背後にある関係や前提に気づくことがあります。ただし、観察と洞察は同じものではありません。何を見聞きしたのかということと、そこからどのような意味を読み取ったのかは、区別する必要があります。

自分では鋭い洞察だと思っていても、それが思い込みである可能性はあります。また、強い経験をしたからといって、その経験についての解釈が必ず正しいとは限りません。だからこそ、経験や観察を大切にすることと、そこから生まれた理解を問い直すことは、両立するのだと思います。

学問によって得た知識が、それまでの経験の捉え方を変えることもあります。反対に、日常の経験や観察から生まれた疑問が、学問を通して深まっていくこともあります。それぞれは異なるものでありながら、互いに関わり合っているのです。

 

人間理解を、一つの方法に限定しない

Office Human Nature では、人間という存在を理解することを、一つの中心的な関心としています。その対象は、人間の心理や行動だけではありません。社会制度や歴史、文化、文明の成り立ち、そして意識や霊性、人間の本質についての問いにも広がっています。

人間を理解しようとすれば、その人間がどのような社会や世界を生きているのかという問題にも向き合うことになります。また、社会や文明の成り立ちを辿っていくと、それらを生み出してきた人間の認識や価値観が見えてくることもあります。

さらに私は、長年にわたり、人間を身体や社会的な人格だけに限定せず、霊的な存在として捉える認識を大切にしてきました。私にとって意識や霊性は、人間とは何かを考えるうえで欠かすことのできない探究の領域です。そして、それらは心理や行動、社会や文化についての理解と切り離されたものではなく、互いに関わり合っていると考えています。

ただし、そうした認識を持っていることと、人間や世界の本質について、すべてを理解していることは同じではありません。また、科学的な知見、哲学的な考察、個人の経験、霊的な認識は、それぞれ性質が異なります。

例えば、瞑想によって意識の状態が大きく変化したという経験があったとしても、その経験だけで、意識や世界の仕組みについての特定の説明が証明されるわけではありません。一方で、その経験が本人にとってどのような意味を持ち、認識や生き方をどのように変えたのかという問題は、探究する価値のあるものです。

異なる領域を扱うことは、それらを無理に一つの説明へまとめることではありません。何が確認されている事実なのか。何が個人の経験なのか。そして、そこからどのような解釈が生まれているのか。それぞれを区別しながら、互いの関係を考えていくことが大切だと思っています。

 

理解することも、問い続けることも

私にとって人間理解とは、学問によって得られる知識だけでなく、自分自身の経験や観察、そこから生まれる問いや洞察を通して、人間という存在を見つめていく営みです。

人間とは何なのか。私たちは、どのような世界を経験しているのか。そして、その経験を通して、何を理解し、どのように変化していくのか。そうした問いに関心があるからです。

人間について何かを理解したことによって、自分自身の認識が変わることがあります。それまで当然だと思っていたことを問い直し、他者や世界への向き合い方が変わることもあります。私は、そのような変化を霊的成長という視点から捉えることもあります。

しかし、いつも何かを理解しようと意識しているわけではありません。街を歩いているとき、誰かと話しているとき、映画を観ているとき、あるいは仕事をしているときにも、ふと何かに気づくことがあります。何気ない出来事が面白く感じられたり、理由のわからない違和感が心に残ったりすることもあります。

そうした気づきや問いが、後になって別の知識や経験とつながることがあります。一方で、特に答えを出すことなく、そのまま心に残り続けるものもあります。私は、そのような過程も楽しんでいます。

人間理解は、必ずしも何かの結論に到達するためだけのものではありません。理解が深まることも面白いですし、わからないことに出会うことも、また面白いものです。

学問によって得られる知識を学び、自分自身の経験を見つめ、日常の中で観察し、感じ、考える。そして、ときには異なる領域の間に思いがけないつながりを見いだす。私にとって、それは人生の細部を楽しむ、一つの遊びでもあります。

人間を理解することは、学問だけで完結するものではありません。しかし、学問と切り離されたものでもありません。知識を得ること、経験すること、観察すること、考えること。そして、そこから生まれる問いを楽しむこと。

Office Human Nature における人間理解は、そうした営みを通して、人間と世界を見つめ続ける探究です。

 

参考資料


大阪大学大学院人間科学研究科・人間科学部「人間科学について」 https://www.hus.osaka-u.ac.jp/ja/about/hus/
大阪大学「人間科学部の教育目標および各ポリシー」 https://www.osaka-u.ac.jp/ja/education/announcement/main/policies/s-human_policy.html
Stanford Encyclopedia of Philosophy(スタンフォード哲学百科事典)「Wilhelm Dilthey(ヴィルヘルム・ディルタイ)」 https://plato.stanford.edu/archives/fall2020/entries/dilthey/

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