Quiet Signals

日常の観察・問いの記録

整えるのを、やめてみる

朝、白湯を飲む。

窓を開ける。

深く息を吸う。

身体を伸ばす。

そうした時間は、一日の始まりを静かに整えてくれます。

私は、そういう時間が好きです。

けれど、ある日ふと気づくことがあります。

その習慣ができなかった朝に、どこか落ち着かない自分がいることに。

今日は整えられなかった。

今日は良い一日にならないかもしれない。

そんな考えが、ごく自然に浮かんできます。

白湯を飲まなかったことよりも、「整えられなかった自分」を見始めていることのほうが、私には少し興味深く感じられます。

整えることは、暮らしを支えてくれます。

身体にも、心にも、小さなリズムを与えてくれます。

だから私は、それを否定したいわけではありません。

けれど、人は「整える」という行為を続けているうちに、「整っている自分」と「整っていない自分」を静かに作り始めます。

その境界は、とても曖昧です。

深呼吸ができた日。

できなかった日。

部屋が片づいた日。

散らかったままの日。

本来は、それぞれ違う一日であるだけなのに、私たちはそこへ「良い」「悪い」という意味を重ねてしまいます。

整えることは、身体への働きかけであると同時に、自分を認識する方法にもなっているのでしょう。

だから、ときどき何もしない日をつくってみます。

整えようとしない。

改善しようとしない。

ただ、その日の身体を、その日のまま過ごしてみる。

不思議なことに、整えることを休んだからといって、人は急に壊れてしまうわけではありません。

呼吸は続いています。

身体は今日という時間を生きています。

世界も変わらず動いています。

そうして一日を過ごしていると、「整える」という行為が、自分を支えていたことと同じくらい、「整えなければならない」という思いも育てていたことに気づくことがあります。

整えることは、大切です。

けれど、ときどき休んでみることも、同じくらい大切なのかもしれません。

その一日を過ごしたあとで見えてくる自分もまた、今ここを生きている、一人の人間なのです。

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