
人は、本来の自己へと戻ることができる
私たちは、生まれたときから「何かになること」を求められながら生きています。
より良くなること。
正しくあること。
価値のある自分になること。
その積み重ねの中で、いつの間にか「いまの自分では足りない」という前提が、静かに根づいていきます。
けれど、その前提そのものが、本当に確かなものなのでしょうか。
何かを足していくことによって、ようやく満たされる。
どこか遠くにある理想に近づくことで、自分は完成する。
そのような道筋を辿りながらも、どこかで感じているはずです。
積み重ねてもなお、消えない違和感を。
それは、努力が足りないからではありません。
選んだ道が間違っているからでもありません。
そもそも、向かっている方向が、少しだけずれているだけかもしれません。
人は、本来の自己へと戻ることができます。
新しく何かになるのではなく、 すでに在るものを思い出していく。
足していくのではなく、重なっていたものがほどけていく。
その過程の中で見えてくるのは、 「自分を形づくっていたもの」の多くが、後から身についたものであったという事実です。
価値観。
常識。
正しさ。
社会の中で求められてきた役割。
それらは、生きていくうえで必要なものでありながら、同時に、私たちの認識の輪郭を静かに限定していきます。
特に日本では、その傾向が強く表れます。
教育の中で、社会の中で、 「こうあるべき」という基準が、丁寧に、そして深く、内側に刻まれていきます。
空気を読むこと。
調和を保つこと。
正解に近づくこと。
それらは美しさでもありますが、同時に、自分自身の感覚よりも外側の基準を優先する構造を生み出します。
そのため、「本来の自己に戻る」ということは、単純な感覚の問題としては起こりにくい。
ただ感じればいい、というだけでは、ほどけていかない層が存在します。
だからこそ、理解が必要になります。
自分がどのような前提の中で生きてきたのか。
どのような構造の中で、価値観が形づくられてきたのか。
それを一つひとつ見ていくこと。
理解することによって、はじめて見えるものがあります。
見えることで、ようやく手放せるものがあります。
無理に変わる必要はありません。
何かを壊す必要もありません。
ただ、見えていなかったものが見えるようになるとき、 自然と、重なっていたものが静かにほどけていきます。
その先にあるのは、特別な状態ではありません。
もともと在ったものに、戻っていくだけです。
どこか遠くへ向かうのではなく、 いまここにある感覚の奥へと、静かに還っていく。
それは、大きな変化のようでいて、 とても自然で、静かな移行です。