Inner Growth

内面の探究・人間存在の考察

人はなぜ、自分ではないものになろうとするのか.

私たちは、生まれたときから、何かになることを求められながら生きています。

より良くなること。

正しくあること。

価値のある人間になること。

認められること。

成果を出すこと。

気づけば人生の多くが、「いまの自分に何かを足していくこと」に向けられています。

もっと知識をつける。

もっと努力する。

もっと成長する。

もっと評価される。

そうすれば、いつか満たされる。

そうすれば、ようやく自分は完成する。

私たちは、どこかでその前提を受け入れながら生きています。けれど、本当にそうなのでしょうか。

多くの人が、何かを積み重ねながら、心のどこかで違和感を抱えています。

努力している。

前に進んでいる。

以前よりできることも増えている。

それなのに、なぜか満たされない。

何かが足りない感覚が、消えない。

この感覚は、努力不足から生まれているのでしょうか。

選択を間違えたからでしょうか。

そういう場合もあるかもしれません。けれど、本質的な問題は、別のところにあることがあります。

それは、努力が足りないことではありません。進み方が遅いことでもありません。そもそも、向かっている方向そのものが、少しずれているのかもしれません。

 

「足りないものを足す」という前提

私たちは長いあいだ、「足りないものを足す」という方向で生きてきました。

足りない知識を埋める。

足りない能力を補う。

足りない魅力を磨く。

足りない価値を証明する。

けれど、その方向に進み続けても、違和感が消えないことがあります。なぜなら、その前提の奥に、もっと根深いものがあるからです。

それは、「いまの自分では足りない」という前提です。この前提は、とても静かに形成されます。

幼い頃から、私たちはさまざまな基準の中で生きています。

学校では、評価されます。

点数。

順位。

偏差値。

内申。

社会に出れば、今度は別の基準が現れます。

年収。

役職。

実績。

肩書き。

資格。

そこでは、比較が自然に起こります。

誰が優れているか。

誰が価値を持つか。

誰が認められるか。

こうした構造の中で生きていると、少しずつ前提が作られていきます。

もっと頑張らなければ。

もっと価値を示さなければ。

もっと認められなければ。

そうしなければ、自分は足りない。

 

自分ではないものが、自分になっていく

この感覚は、個人の問題だけではありません。多くの場合、それは社会の中で自然に身につけてきたものです。

教育。

評価。

承認。

比較。

所属。

私たちは、そうした構造の中で生きながら、自分とは何かを形づくっていきます。そして、いつの間にか、その構造そのものを自分だと思い始めます。けれど、本当にそうでしょうか。

私たちが自分だと思っているものの多くは、後から身についたものかもしれません。

価値観。

常識。

正しさ。

役割。

自己イメージ。

それらは生きるために必要なものでもあります。けれど同時に、私たちの認識を静かに限定していきます。

何が正しいのか。

どうあるべきか。

どう生きるべきか。

その枠組みの中で生き続けると、自分の感覚よりも、外側の基準が優先されるようになります。すると、自分から少しずつ離れていきます。

本来の自己から離れるとは、特別な出来事ではありません。

何か劇的なことが起きるわけでもありません。むしろ、とても静かに起こります。

外側に合わせ続けること。

求められる役割を演じ続けること。

期待に応え続けること。

その積み重ねの中で、少しずつ、本来の感覚が見えにくくなっていくのです。

 

戻るとは、何かを獲得することではない

だから、本来の自己へ戻るとは、新しく何かになることではありません。

何かを獲得することでもありません。

むしろ逆です。

すでに重なっていたものが、少しずつほどけていくことです。

足していくのではなく、離れていたものが戻っていく。

忘れていたものを、思い出していく。

ただ、ここで一つ重要なことがあります。

本来の自己へ戻ることは、単に「感じればよい」というほど簡単ではありません。

少なくとも、多くの人にとってはそうです。なぜなら、私たちの内側には、長い時間をかけて形成された構造があるからです。

考え方の癖。

反応の癖。

価値判断の癖。

観念。

条件付け。

それらは、感覚だけで自然にほどけるとは限りません。

 

見えることで、手放せるものがある

だからこそ、理解が必要になります。

自分がどのような前提の中で生きてきたのか。

何を信じてきたのか。

どのような構造の中で、自分という感覚が形づくられてきたのか。

それを、一つひとつ見ていく。

理解することによって、見えるものがあります。

見えることで、初めて手放せるものがあります。

見えていないものは、選ぶことができません。

見えていないものは、手放すこともできません。

けれど、見えたものは変わります。

それまで無意識に握っていたものが、少しずつ握れなくなっていく。

これまで当然だと思っていた前提が、絶対ではなくなっていく。

そのとき、内側で静かな変化が起き始めます。

無理に変わる必要はありません。

何かを壊す必要もありません。

ただ、見えていなかったものが見えるようになるとき、重なっていたものは自然にほどけていきます。

 

本来の自己は、遠くにある理想像ではない

その先にあるものは、特別な状態ではありません。

何かすごい自分になるわけでもありません。

もともと在ったものに、戻っていくだけです。

どこか遠くへ向かうのではありません。

本来の自己とは、未来にある理想像ではありません。

それは、いまここから離れた場所にあるものではないのです。

私たちは、何かになることで完成するのではありません。むしろ、重なっていたものが静かにほどけていくとき、本来のものが自然と現れてきます。

戻るとは、そういうことなのかもしれません。

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