
この場所で何を見ているのか|矛盾して見えるものが、実はひとつにつながっている理由
この場所では、さまざまなテーマについて書いています。人間理解や認識、社会構造、資格、評価、霊性、波動、現実創造、本質的自己、手放しなど、テーマだけを見ると、かなり幅広く感じられるかもしれません。実際、記事を読んでいく中で、少し矛盾しているように感じる方もいると思います。
ある記事では回帰について書き、別の記事では創造について書いています。構造を見ている記事もあれば、包み込むことについて書いている記事もあります。また、知性の重要性を語る一方で、知識の限界について書くこともあります。それぞれが違う方向を向いているように見えるかもしれません。けれど、私の中では、それらはすべてひとつの流れの中にあります。
一見すると矛盾して見えるものが、なぜ矛盾していないのか。今回は、そのことについて少し書いてみたいと思います。
回帰と創造は対立していない
この場所では、「本来の自己への回帰」という表現がよく出てきます。本来ではないものや後から身につけたもの、社会の中で受け取った前提、観念、条件付け、同一化などが少しずつほどけ、本来の自分へ戻っていく。この流れを、私はさまざまな入口から書いてきました。
一方で、「現実創造」や「創造」という言葉も使っています。これだけを見ると、矛盾しているように見えるかもしれません。回帰とは戻ることであり、創造とは生み出すことだからです。正反対に見えるこの二つですが、私にはそうは見えていません。現実創造を深く探究していくと、多くの場合、最終的には自分の内側へ戻ることになります。
なぜ思うように現実が動かないのか。なぜ執着してしまうのか。なぜ不足感を握っているのか。なぜ恐れから願っているのか。そうした問いを見つめていくと、結局は、自分が何を握っていたのかを見ることになります。さらに深く見えてくるものもあります。それは、現実を変えたいという欲求そのものが、すでにある前提の上に成り立っているということです。
いまの現実では足りない、このままの自分では足りない、何かを得れば満たされる。こうした前提が無意識にあるとき、創造は不足を埋めるための行為になりやすくなります。しかし、その前提そのものがほどけていくと、創造の質が変わり始めます。何かを埋めるためではなく、もっと自然な表現として現実が動き始めることがあります。
つまり、創造の探究は、回帰へつながっていくことがあるのです。そして、本来ではないものがほどけていくと、創造もまた自然になります。無理に現実を操作しようとするのではなく、もっと自然な流れとして創造が起き始める。
だから、回帰と創造は別々のものではありません。入口が違うだけで、深いところではつながっています。
自由意志と人生の流れ
人生について考えていると、二つの感覚に出会います。ひとつは、自分で選んでいる感覚です。何を選ぶか、どこへ進むか、誰と関わるか。私たちは日々、さまざまなことを選択しています。
しかし同時に、不思議な感覚もあります。離れようとしても、なぜか戻ってくるものがある。別の道へ進んだはずなのに、また同じテーマに戻っている。振り返ると、一貫した流れがあったように感じる。そうした感覚です。
すると人は、人生は決まっているのか、それとも自分で選んでいるのか、と考えます。しかし、これは二択ではないのかもしれません。局所では、私たちは選択しています。けれど、大きな流れの中では、その人自身の深い性質やテーマが働いていることがあります。だから私は、人生を完全に設計するものとも、完全に決められているものとも思っていません。
人生には選択もあれば、流れもある。その両方が存在しているように感じています。そして、さらに深く見ていくと、もうひとつの問いが現れます。
そもそも、その選択をしている「私」とは何なのか。私は本当に自由に選んでいるのか。それとも、過去の記憶や観念、条件付け、恐れ、欲求によって反応しているだけなのか。
この問いに触れ始めると、自由意志というテーマも、単なる哲学的議論ではなくなります。それは、自分が何によって動いているのかを見つめる探究へ変わっていきます。
構造を見ることと、包み込むこと
この場所では、構造という言葉もよく出てきます。教育構造や労働構造、認識構造、評価構造などです。また、人によって見えているものに差があることも書いています。知識や経験、認識、感受性などの違いを見ることを大切にしています。一方で、「包み込む」という言葉も使っています。
違いを見ながら、優劣にしない。階層を見ながら、裁きにしない。ここも矛盾して見えるかもしれません。しかし、私にとって、違いを見ることと優劣をつけることは別のものです。
違いも、階層も、構造もあります。けれど、それは誰かを裁くためにあるものではありません。あくまで、理解するための補助線です。構造を見るとは、優劣を決めることではありません。違いがあることを見た上で、それを裁きへ変換しないこと。そこに、包み込むという視点があります。
知性と霊性
この場所では、知性も重視しています。構造を整理し、論理や前提を見つめ、認識を理解する。こうした知的な営みは、とても大切です。一方で、知識には限界があるとも書いています。知っていることと、そこに立っていることは違う。説明できることと、体験していることは違う。ここも一見すると、矛盾して見えるかもしれません。
しかし、私にとって知性は、霊性と対立するものではありません。むしろ橋です。特に現代人は、非常に強い条件付けの中で生きています。だからこそ、まず知性によって、自分が何に縛られていたのか、何を握っていたのか、どんな前提を信じていたのかを理解する必要があります。
知性は入口として重要です。ただし、知性だけでは最後まで行けません。ここには、ひとつ難しさもあります。知性は、人を自由へ導くこともあります。しかし同時に、とても巧妙な防衛にもなります。
構造を理解し、言語化し、説明できるようになる。ここまでは、知性によってかなり進めます。けれど、それによって「わかったつもり」になることもあります。本当はまだ強く握っていて、深く同一化している。それでも、理解したことで超えたように感じてしまうのです。
知性が高い人ほど、この構造は精巧になりやすい。だからこそ、知性は大切でありながら、同時に慎重に扱う必要があります。そして、ある地点から先は、体験の領域になります。知性は扉の前まで連れていってくれます。けれど、その扉をくぐるのは、自分自身です。
なぜ矛盾して見えるのか
ここまで書いてきたことは、一見すると矛盾して見えるかもしれません。回帰なのか、創造なのか。自由なのか、流れなのか。構造を見ることなのか、包み込むことなのか。知性なのか、霊性なのか。しかし、私にはこれらが矛盾しているようには見えていません。なぜなら、ずっと同じものを見ているからです。
私が見ているのは、常にひとつです。
人は、どのような前提で世界を認識しているのか。その認識構造によって、何に縛られているのか。そして、どうすれば本来の自己へ戻っていくのか。
ずっとここを見ています。だからこの場所では、テーマが変わっているように見えても、本質的には同じものを見続けています。社会を見ているようで、人間を見ている。構造を見ているようで、認識を見ている。誰かについて考えているようで、自分自身を見つめることになる。
入口はさまざまです。社会構造や心理、霊性、違和感、現実創造など、どこから入ることもあります。けれど、深く見ていくと、結局いつも同じ場所へ戻ってきます。
自分は、どのような前提で世界を見ているのか。何を握り、何に縛られているのか。そして、その構造がほどけた先に、何が見えるのか。
この場所で見ているものは、ずっと変わっていません。変わるのは、そこへ入るための入口だけです。そして、どの入口から入ったとしても、最後に見つめることになるのは、いつも自分自身です。