Quiet Signals

日常の観察・問いの記録

光の眩しさに、目を閉じる

春になると、世界は動き始めます。

木々は芽吹き、人は新しい環境へ向かい、街には「始まり」という空気が満ちていきます。

その光景を見ていると、不思議なことがあります。

自分も動かなければならないような気がしてくるのです。

何かを始めなければ。

変わらなければ。

前へ進まなければ。

季節は、ただ移り変わっているだけです。

けれど私たちは、その変化を、自分への期待として受け取ってしまうことがあります。

周囲が動き始めるほど、自分だけが立ち止まっているように感じる。

外側の明るさが増すほど、内側の静けさを、どこか間違いのように思ってしまう。

本当にそうなのでしょうか。

春は、世界の季節です。

けれど、人の内側にも、同じ速さで春が訪れるとは限りません。

まだ冬の余韻を抱えている日もあります。

静かな土の中で、見えない時間を過ごしていることもあります。

芽吹く前の種に、「まだ咲かないのか」と問い続けても、その季節は早まりません。

生命には、それぞれ固有の時間があります。

だから、ときには光の眩しさから目を閉じてみます。

外側の景色ではなく、自分の内側に流れている季節へ意識を向ける。

そこには、誰とも比べる必要のない静かな時間が流れています。

動くことだけが、生命ではありません。

見えないところで根を伸ばす時間もまた、生命の営みです。

春は、一つではないのでしょう。

世界に訪れる春と、自分の内側に訪れる春。

その二つが同じ日に重ならなくても、何も間違ってはいないのだと思います。

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