
『マイ・フレンド・フォーエバー』 少年たちの純粋さ
人生には、いつか必ず終わりが訪れます。それはわかっているはずなのに、私たちはどこかで、その「終わり」を先延ばしにしたり、別の何かで塗りつぶそうとしたりして生きています。
映画『マイ・フレンド・フォーエバー』の二人の少年、エリックとデクスターもそうでした。デクスターは重い病を抱え、自らの命が遠からず尽きることを理解しています。けれど、エリックはそれを「治る病気」だと信じようとする。そして二人は、死という現実を塗りつぶすために、川をいかだで下り、魔法の薬を探す旅に出るのです。
彼らの旅は、大人が作った冷淡な論理に対する、あまりにも無防備で、子どもじみた抵抗でした。死を理解しきれない、という残酷なまでの無知。それは、彼らを死の恐怖から守る唯一の結界のようなものだったのかもしれません。大人が「どうしようもない」とあきらめる場所に、彼らは無邪気に希望を投げ込み、魔法を信じることで、その痛みに耐えていました。そうやって彼らは、絆という脆いいかだに乗り、終わりゆく時間を必死に引き止めていたのです。
けれど、物語は残酷に加速します。どれほど懸命に探しても、魔法の薬は見つからない。彼らが必死に信じようとした希望は、現実の冷たい風にさらされるたびに、少しずつ形を失っていきます。
目的地へ向かうことは、単なる希望の追求ではありませんでした。それは、いつか必ず訪れる「さようなら」を、彼らなりのやり方で受け入れるための、痛ましいほどの儀式だったのでしょう。
そして、デクスターが去った後、エリックが川岸に親友のスニーカーを置くあのラストシーン。そこに残された片方の靴は、もはや目的地に辿り着くための道具ではありません。それは、あの日々を懸命に駆け抜けたという、少年たちの震えるような生そのものの残像です。エリックは、親友との約束を捨てたのでも、死を受け入れたのでもありません。ただ、言葉にできない喪失を、そのままそこへ置き去りにしたのです。
私たちは、いつまで魔法を信じられるのでしょうか。終わりの来ることを知りながら、それでも誰かと川を下り、いつか叶わないとわかっている約束を握りしめる。
回り続ける日常のざわめきのなかで、私は静かに佇んでいます。デクスターのいない川岸に、親友のスニーカーをそっと置くエリックのように。答えなどなくても、ただあのときの記憶が、いまの私の呼吸を、ほんの少しだけ震わせているのように思います。