Quiet Signals

日常の観察・問いの記録

『化物語』|救わずに隣にいるということ

夜の静けさの中で、阿良々木暦と戦場ヶ原ひたぎは、途切れることなく、饒舌に言葉を交わします。

『化物語』には、怪異に悩む人たちが登場します。

それぞれが抱えているものは違います。けれど、その問題を誰かが完全に引き受け、代わりに解決してくれるわけではありません。

忍野メメは、必要な知識を伝え、方法を示し、ときには力を貸します。

けれど、本人に代わってその人を救おうとはしません。

人は、最後には自分で助かるしかない。

この作品を観ていると、そんな考え方が静かに流れているように感じます。

最初は、少し冷たく見えるかもしれません。

苦しんでいる人がいるなら、助ければいい。

困っている人がいるなら、救えばいい。

そう考えるほうが、優しく見えることもあります。

けれど、誰かの人生を代わりに生きることはできません。

その人が抱えている痛みも、迷いも、恐れも、最後にはその人自身が向き合わなければならないものです。

周囲の人にできることはあります。

話を聞くこと。

必要な言葉を渡すこと。

知っていることを伝えること。

手を差し出すこと。

そして、ときにはただ隣にいること。

けれど、その人自身が歩くはずの道まで、代わりに歩くことはできません。

むしろ、誰かを救おうとするあまり、その人が自分で立ち上がる力まで奪ってしまうこともあるのかもしれません。

 

戦場ヶ原が阿良々木と星空を見上げる場面があります。

そこで彼女は、自分にあるもの、自分が相手に差し出せるものを見せていきます。

すべてを与えられるわけではない。

相手のすべてを満たせるわけでもない。

それでも、自分にあるものを差し出し、同じ時間を過ごすことはできます。

この場面を見ていると、誰かと関わることは、相手を救うこととは違うのだと思えてきます。

人は、自分で助かる。

けれど、一人きりでなければならないわけではありません。

自分で立ち上がることと、誰かの力を借りることは、矛盾しないのでしょう。

誰かが差し出してくれた言葉によって、自分の中にあるものに気づくことがあります。

誰かがそばにいることで、自分で一歩を踏み出せることもあります。

それでも、最後にその一歩を踏み出すのは自分です。

誰かを救うことはできなくても、その人が自分で助かっていくために、隣にいることはできる。

何かを教えることもできる。

手を貸すこともできる。

同じ時間を過ごすこともできる。

それは、何もしないことでも、見捨てることでもありません。

相手には、自分で立ち上がる力がある。

そのことを信じて、相手の人生を相手のものとして残しておく。

それもまた、一つの関わり方なのだと思います。

互いの痛みを完全に引き受けることはできない。

それでも、同じ星空を見上げることはできる。

そして、隣に誰かがいたとしても、自分の人生を歩いていくのは自分自身です。

『化物語』を観ていると、その当たり前のようで難しいことを、何度も思い出させられます。

誰かの隣にいるということは、その人を救うことではなく、その人が自分で助かっていく力を奪わずにいることなのかもしれません。

-- 『化物語』を観て

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