
評価の手を、やすめる
私たちは、見ると同時に評価しています。
良い。
悪い。
役に立つ。
役に立たない。
美しい。
そうではない。
目に入ったものを、そのまま受け取ることは案外少ないのかもしれません。
評価は、人間の認識の働きです。
世界はあまりにも複雑で、あまりにも情報が多い。
だから私たちは、分類し、名前をつけ、優先順位を決めながら世界を理解しています。
それは、生きるための自然な営みなのでしょう。
けれど、ときどき思います。
評価した瞬間に、見えなくなるものもあるのではないだろうか、と。
道端に咲く草を「雑草」と呼んだ途端、その草は一つの分類になります。
人を「優秀」と呼んだ途端、その人の揺らぎは見えにくくなります。
自分自身を「失敗した」と評価した途端、その一日に流れていた静かな時間は、どこかへ退いてしまいます。
評価は便利です。
けれど、便利だからこそ、世界を単純にしてしまうことがあります。
私は、ときどき評価を止めてみます。
正しいとも、間違っているとも決めない。
意味があるとも、ないとも言わない。
ただ、そのまま眺めてみる。
すると、不思議なことがあります。
分類された世界では見えてこなかった細かな違いが、少しずつ輪郭を持ち始めるのです。
評価することは、悪いことではありません。
それもまた、人間という存在の自然な働きです。
けれど、ときには評価よりも先に、そのものを見る時間があってもいい。
人間を理解するとは、評価のあとに残るものではなく、評価する前にそこにあるものを見つめることなのかもしれません。