
正しさは、疑問を遠ざける
正しいことをしているとき、私たちはあまり立ち止まりません。
周りもそうしている。
十分な説明もある。
結果も出ている。
だから、そのまま続けます。
迷いが少ないことは安心につながります。
何をすればよいかが明確であれば、考え続ける必要もありません。
その意味で、「正しさ」は人間が社会を生きるための、とても大切な仕組みなのだと思います。
けれど、ときどき気になることがあります。
正しさそのものではなく、正しいと確信したあとの認識です。
正しいと思えた瞬間、人は少し安心します。
そして安心した認識は、新しい問いを探さなくなります。
もちろん、それは悪いことではありません。
毎日のすべてを疑い続けていては、人は暮らしていけないからです。
けれど、その働きがあるからこそ、小さな違和感は静かに認識の外へ置かれていきます。
「何かがおかしい気がする」
その感覚があっても、
「でも、これが正しいのだから」
そう考えた瞬間、違和感は優先順位を失います。
あとから振り返ると、不思議に思うことがあります。
最初の違和感は消えていたのではありません。
ただ、正しさの後ろに隠れていただけだったのです。
私は、人間が正しさを求めることを否定したいわけではありません。
正しさは、人と社会を支える大切な知恵です。
けれど、人間を理解しようとするとき、ときには「正しい」という言葉の外側にも目を向けてみたくなります。
正しさが照らしているもの。
そして、その光によって見えなくなっているもの。
その両方を眺めていると、人間という存在は、正しさだけでは語りきれないことに気づきます。
疑問は、間違いの中からだけ生まれるのではありません。
ときには、「あまりにも正しいもの」の中から、静かに姿を現すことがあるのかもしれません。