Quiet Signals

日常の観察・問いの記録

誰かの記憶のなかにいる、私

ときどき、昔の私について誰かから話を聞くことがあります。

「あの頃、こんなことを言っていた」

「こんなことがあった」

そう言われても、私にはその記憶がありません。

少し考えてみても、出てこない。言われてみればそんなこともあったのかもしれないと思うけれど、そのときの景色も、自分が何を考えていたのかも、ほとんど残っていません。

けれど、相手は覚えています。

そのとき私が何を言ったのか。どんな様子だったのか。ときには、私自身よりもずっと鮮明に。

それを聞いていると、少し不思議な気持ちになります。

そこにいたのは、間違いなく私だったはずです。

私がその場所にいて、何かを見て、誰かと話し、その時間を生きていた。

それなのに、今の私の中には、その時間がありません。

忘れた、というだけなら珍しいことではないのでしょう。

毎日たくさんの出来事を経験して、そのほとんどを私たちは忘れていきます。昨日の昼に何を考えていたのかさえ、もう思い出せないことがあります。

けれど、自分から消えてしまった記憶が、誰かの中には残っている。

そのことだけは、何度経験しても少し妙です。

私にとっては何もない場所に、相手には景色がある。

私には聞こえない言葉を、その人は覚えている。

そして、その記憶の中には、私もいる。

話を聞きながら、その人が覚えている「私」を想像してみることがあります。

どんな顔をしていたのだろう。

本当にそんなことを言ったのだろうか。

今の私なら言わないようなことを言っていたかもしれないし、反対に、今もほとんど変わっていないことを言っていたのかもしれません。

確かめる方法はありません。

相手の記憶が完全に正しいとも限らないし、私が忘れているからといって、その出来事がなかったことになるわけでもありません。

ただ、そこには私の知らない私がいます。

そう考えると、自分というものが、自分の内側だけに収まっているわけではないように感じる瞬間があります。

私が覚えている自分。

誰かが覚えている私。

写真に残っている私。

もう誰の記憶にも残っていない私も、おそらくいるのでしょう。

そのすべてを集めても、一人の人間を完全に取り戻すことはできない気がします。

それでも普段は、そんなことを考えません。

昨日から今日へ、今日から明日へ。同じ私がそのまま続いているように、ごく自然に暮らしています。

だからこそ、誰かの口から、自分の知らない自分の話を聞くときだけ、その当たり前が少し揺らぎます。

話が終われば、またいつもの時間へ戻ります。

相手も私も、それぞれの日常へ戻っていく。

けれど、ときどき思い出します。

私がもう覚えていない場所で、私が笑ったり、話したり、何かを考えたりしていたこと。

そして、その時間を、今も誰かが覚えていること。

自分の記憶から消えてしまった私が、誰かの記憶のなかでは、まだ静かに生きています。

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