Inner Growth

内面の成長・気づきのコラム

  • HOME
  • Insights
  • Inner Growth
  • なぜ「網様体賦活系」だけでは説明がつかないのか 現実創造という視点から見る意識の力

なぜ「網様体賦活系」だけでは説明がつかないのか 現実創造という視点から見る意識の力

「引き寄せの法則」や「思考は現実化する」という言葉を語るとき、よく持ち出される説明があります。

それが、網様体賦活系(もうようたいふかつけい)です。

網様体賦活系は、RAS(Reticular Activating System)とも呼ばれます。

脳幹にある神経ネットワークで、私たちがどの情報に注意を向けるか、どの情報を意識に上げるかに関わっているとされています。

たとえば、赤い車が欲しいと思い始めると、急に街で赤い車が目につくようになる。

ある言葉を気にしていると、テレビや本や会話の中で、その言葉ばかりが入ってくるように感じる。

あるテーマに関心を持ち始めると、今まで見過ごしていた情報が急に集まってくるように感じる。

こうした現象は、網様体賦活系による選択的注意として説明されることがあります。

つまり、現実そのものが変わったのではなく、自分が見ているものが変わっただけだ、という説明です。

これは、一定の範囲では正しいと思います。

私たちは、世界のすべてを見ているわけではありません。

膨大な情報の中から、自分に関係があるもの、自分が意識を向けているものを選び取って生きています。

だから、意識が変われば、見える世界も変わります。

ここまでは、脳科学的な説明として理解できます。

けれど、私自身の体験から言えば、現実創造と呼ぶしかないような出来事は、網様体賦活系だけでは説明がつきません。

単に「意識していたから目についた」という話ではないのです。

まだそこに存在していなかったはずの出来事が、現実の中に現れてくる。

出会うはずのなかった人と出会う。

必要としていた情報が、予想もしない経路で届く。

意識状態が変わった途端に、目の前の流れそのものが変わる。

そうした体験を重ねていくと、脳のフィルター機能だけで現実を説明することには、どうしても限界があると感じるようになります。

 

網様体賦活系が説明しているもの

まず、網様体賦活系の説明を否定する必要はありません。

私たちの脳には、膨大な情報をすべて処理しないための仕組みがあります。

外の世界には、音、光、匂い、文字、表情、動き、記憶と結びつく情報など、無数の刺激があります。

それらをすべて同じ重さで受け取っていたら、私たちは日常生活を送ることができません。

そこで脳は、自分にとって重要だと判断した情報を優先的に意識へ上げます。

関心を持ったものが目につきやすくなる。

意識を向けたものに関する情報を拾いやすくなる。

これは、実際に私たちの日常でも起きています。

たとえば、ある車種を買おうと考え始めると、急に街でその車が増えたように感じることがあります。

実際に車の数が増えたのではなく、もともと存在していたものに気づくようになったのです。

ある言葉を覚えた途端に、その言葉をあちこちで目にするようになることもあります。

これも、世界が急に変わったというより、自分の注意の向きが変わったと見ることができます。

この意味で、網様体賦活系は非常に重要な説明です。

私たちは、現実をそのまま見ているのではありません。

自分の関心、信念、恐れ、期待、願望によって、現実の中から何を拾い上げるかが変わっています。

だから、意識の向け方が変われば、見える世界は変わる。

これは確かにあります。

しかし、ここで注意しなければならないのは、網様体賦活系が説明しているのは、主に「何を知覚するか」という領域だということです。

すでに存在している情報の中から、何に気づくか。

膨大な現実の中から、何を拾うか。

この説明としては有効です。

けれど、それは現実創造のすべてではありません。

 

網様体賦活系では説明しきれないもの

網様体賦活系による説明だけでは足りないと感じるのは、現実の中には、単なる選択的注意では説明できない出来事があるからです。

すでにそこにあったものに気づいた、というだけではない。

自分の意識状態と呼応するように、出来事そのものが動き始めることがあります。

たとえば、ある人と出会いたいと強く願っていたら、数日後にまさにその条件に近い人と出会う。

ある情報が必要だと静かに意図したら、まったく予想していなかった経路からその情報が届く。

自分の内側の前提が変わった途端に、周囲の人の反応や、起きる出来事の質が変わる。

こうしたことは、「目につくようになった」だけでは説明しづらいものです。

もちろん、すべてを神秘化する必要はありません。

意識が変われば行動も変わります。

行動が変われば、出会う人や選ぶ場所も変わります。

その結果として、現実が変わることはあります。

けれど、それでもなお、行動の変化だけでは説明が足りない出来事があります。

自分が動く前に、外側の現実が動く。

何かを強く操作したわけではないのに、必要なものが向こうから現れる。

思考や意識状態の変化と、外側の出来事が、ほとんど同時に連動しているように感じられる。

そのような体験を重ねると、現実とは単に外側に固定されたものではなく、意識との関係の中で立ち現れているのではないかと思わざるを得なくなります。

網様体賦活系は、すでにある現実の中から何を見るかを説明します。

しかし、現実創造は、何が現れるか、どの流れに入るか、どの出来事と交差するかという、より深い領域に関わっています。

ここには、脳のフィルター機能だけでは届かない問題があります。

 

私自身が見てきた現実創造の感覚

私自身、ある時期、自分の思考や意識状態と、外側の現実が非常に強く連動しているように感じられる体験を何度もしました。

それは、数週間後や数か月後にようやく結果が出るというような、遠い話だけではありません。

ときには、数秒後。

ときには、数時間後。

あるいは翌日。

自分の内側で持ったイメージや前提、感情の状態が、驚くほど早く現実の反応として現れることがありました。

ある人に対して、ある前提を持って接すると、その前提に沿うような反応が返ってくる。

自分の状態が穏やかで開かれているときには、外側の流れも不思議なほど滑らかになる。

逆に、内側に不安や焦りやコントロール欲が強くなると、現実の中にも摩擦や停滞が生まれる。

こうしたことが、単なる気分の問題では済まないほど、明確に感じられる時期がありました。

もちろん、これは外側のすべてを自分が意図的に操作しているという意味ではありません。

また、思ったことがすべてそのまま現実化する、という単純な話でもありません。

現実創造という言葉は、軽く扱うと非常に誤解されやすいものです。

けれど、少なくとも私の体験では、意識状態と現実の現れ方には深い関係がありました。

それは、網様体賦活系が説明する「注意の向き」よりも、もっと根源的な関係です。

何を見るかだけではなく、何と出会うか。

どういう流れが立ち上がるか。

どの現実の層に自分が入り込んでいくか。

そこに、意識や波動が関わっているように感じられるのです。

 

現代社会は「外側にある現実」を前提にしている

なぜ現実創造という話は、多くの場合、怪しく見られやすいのでしょうか。

その理由の一つは、現代社会そのものが、外側に固定された現実があるという前提で作られているからです。

私たちは、世界は外側に存在していて、人間はそれを認識しているだけだと教えられてきました。

目の前にあるものを観察し、測定し、分類し、説明する。

その方法によって、近代科学は大きく発展してきました。

医学も、教育も、法制度も、社会制度も、多くはこの前提の上に成り立っています。

つまり、まず外側に客観的な世界がある。

その世界を、人間が脳や感覚器官を通して認識している。

この考え方です。

この前提に立つなら、引き寄せや現実創造は、脳の錯覚や注意の偏りとして説明されやすくなります。

なぜなら、現実そのものは外側に固定されていると見なされるからです。

変わっているのは、あくまで見ている側の認識であって、現実そのものではない。

そのように処理されます。

しかし、霊的な視点では前提が異なります。

意識が先にあり、現実はその意識を通して体験される場です。

外側の世界が完全に独立して存在し、人間がそれをただ見ているだけなのではありません。

意識状態、波動、信念、前提、感情、エネルギー。

それらが、現実の体験そのものに深く関わっている。

ここでは、現実とは単に見るものではなく、意識との関係の中で現れるものになります。

この前提の違いを見ないまま議論すると、現実創造は簡単に「脳のフィルターで説明できる」という話に押し込められてしまいます。

 

RASは間違っていないが、階層が違う

ここで大切なのは、網様体賦活系の説明を否定することではありません。

RASは間違っている。

現実創造だけが正しい。

そのように単純に分ける必要はありません。

むしろ、説明している階層が違うのだと思います。

網様体賦活系は、脳のレベルで、注意や知覚の選別を説明します。

心理学的には、信念や期待が行動を変え、その結果として現実が変化することを説明できます。

しかし、意識や波動のレベルでは、さらに深い関係が見えてきます。

それは、何を見るかだけではありません。

どの現実と共鳴するか。

どの出来事と交差するか。

どの流れの中に入っていくか。

この領域です。

つまり、現実創造を考えるときには、複数の階層を分けて見る必要があります。

脳の働きとしてのRAS。

心理的な信念や選択の変化。

身体や神経系の状態。

そして、意識や波動のレベルでの現実との共鳴。

これらは対立するものではありません。

下の階層の説明があるからといって、上の階層の説明が不要になるわけではありません。

身体の反応を説明できるからといって、心の意味が消えるわけではない。

脳の働きを説明できるからといって、意識の深い働きが消えるわけではない。

同じように、網様体賦活系で説明できる部分があるからといって、現実創造のすべてがRASに還元されるわけではありません。

 

周波数という視点

現実創造を考えるうえで、私にとって重要なのは周波数という視点です。

ここでいう周波数とは、単なる比喩ではありません。

私たちがどのような意識状態にあるか。

どのような感情の波動を発しているか。

どのような前提で世界を見ているか。

それらが、外側の現実の質と深く関わっているということです。

安心しているとき。

感謝が自然に湧いているとき。

愛や信頼の中にいるとき。

現実は、不思議なほどなめらかに流れることがあります。

必要な人と出会う。

必要な情報が入ってくる。

物事が、無理に押さなくても進んでいく。

反対に、不安、焦り、怒り、欠乏感、コントロール欲が強いとき、現実にも摩擦が増えやすくなります。

タイミングがずれる。

人との関係が噛み合わない。

必要以上に疲れる。

同じような問題が繰り返される。

もちろん、これは単純に「良い気分でいれば良いことが起きる」という話ではありません。

表面的なポジティブ思考の話でもありません。

むしろ、もっと深いところで、自分がどの周波数帯にいるのかという話です。

言葉では前向きなことを言っていても、内側が不安と欠乏でいっぱいなら、その波動は現実に影響します。

逆に、外側の状況が難しくても、深いところで静けさや信頼があるなら、現実の展開は変わっていくことがあります。

現実は、単に思考の内容だけに反応しているのではありません。

存在の状態に反応している。

私は、そのように感じています。

 

意図とコントロールは違う

現実創造について語るとき、注意しなければならないことがあります。

それは、意図とコントロールを混同しないことです。

意図を持つことは大切です。

自分がどの方向へ向かいたいのか。

どのような意識状態で生きたいのか。

どのような現実と共鳴したいのか。

それを静かに持つことには力があります。

しかし、現実を自我の思い通りに操作しようとすると、そこには歪みが生まれます。

こうならなければならない。

この人をこう動かしたい。

この結果を手に入れなければならない。

そうしたコントロール欲が強くなると、現実創造は愛や調和から離れていきます。

波動も乱れます。

身体にも力が入ります。

マインドは過剰に働き続けます。

その結果、現実を変えようとしているはずなのに、かえって苦しくなることがあります。

現実創造は、欲望を満たすための技術ではありません。

意識の状態を整え、本来の流れに戻るための理解です。

だから本質は、「何を引き寄せるか」だけではありません。

どの意識状態から現実に参加しているのか。

その方がはるかに重要です。

 

なぜ「脳の作用」で終わらせたくなるのか

現実創造をRASや脳の作用だけで説明しようとする姿勢には、ある安心感があります。

脳の仕組みで説明できれば、世界は管理しやすく見えます。

現実は外側に固定されていて、人間はそれを認識しているだけだと考えれば、世界観は大きく揺らぎません。

引き寄せも、現実創造も、脳のフィルターや認知の偏りとして処理できます。

その方が、近代的な常識の中では安全です。

しかし、それでは説明しきれない体験があります。

そして、その体験をすべて錯覚や偶然として片づけてしまうと、人間と現実の関係を非常に狭く見てしまうことになります。

人間は、ただ世界を認識しているだけの存在なのでしょうか。

それとも、意識を通して現実の立ち上がりに参加している存在なのでしょうか。

この問いは、とても大きな問いです。

簡単に結論づける必要はありません。

ただ、少なくとも私自身の体験から言えば、人間は単に現実を見る存在ではありません。

現実に参加し、現実と共鳴し、現実の質に影響を与えている存在です。

その理解なしに、現実創造を語ることはできません。

 

科学とスピリチュアルを対立させない

科学とスピリチュアルは、しばしば対立するものとして扱われます。

科学は客観的で、スピリチュアルは主観的。

科学は確かで、スピリチュアルは怪しい。

そのように分けられることがあります。

しかし、本来はもう少し丁寧に見る必要があります。

科学は、現象のある階層を非常に精密に説明します。

脳の働き、身体の反応、行動の変化、注意の向き。

これらを理解するうえで、科学的視点はとても重要です。

一方で、スピリチュアルな視点は、意識、意味、波動、霊的な実在、存在の深い働きを扱います。

これは、科学がまだ十分に扱えていない領域でもあります。

どちらか一方だけを選ぶ必要はありません。

ただし、階層を混同しないことが大切です。

脳で説明できることを、すべて魂の話にしてしまう必要はありません。

同時に、脳で一部を説明できるからといって、意識や霊性の働きを消してしまう必要もありません。

RASは、現実体験の一部を説明しています。

しかし、RASだけでは説明しきれない現実創造の層があります。

その両方を見つめることが、これからの時代には必要なのだと思います。

 

私たちは現実を見ているだけではない

私たちは、ただ現実を見ているだけの存在ではありません。

意識を通して現実に参加しています。

どのような周波数にいるのか。

どのような前提で世界を見ているのか。

どのような感情や波動を発しているのか。

どのような意図を持ち、どのような状態で存在しているのか。

それらは、目の前の現実の質に深く関わっています。

網様体賦活系は、その一部を説明してくれます。

意識を向けたものが見えやすくなる。

関心を持ったものに気づきやすくなる。

これは確かにあります。

しかし、現実創造はそれだけではありません。

現実は、ただ見つけるものではなく、意識との関係の中で立ち現れるものです。

だからこそ、私たちは自分の内側を見つめる必要があります。

何を考えているかだけではなく、どのような状態でいるのか。

何を望んでいるかだけではなく、その望みの奥に恐れがあるのか、愛があるのか。

何を引き寄せたいかだけではなく、どの周波数から現実に参加しているのか。

そこが問われます。

現実創造とは、世界を自分の思い通りに操作することではありません。

意識と現実が深く関係していることを理解し、自分の在り方を静かに見つめ直すことです。

その視点に立つとき、RASは一つの説明になります。

けれど、それだけでは届かない領域があります。

人間は、脳だけで現実を見ているのではありません。

魂を持ち、意識を持ち、波動を通して現実と関わっています。

その深い関係の中で、私たちは現実を体験し、また創造しているのだと思います。

関連記事