
「なぜこの子はわからないのか」と思ったとき|子どもではなく、自分を見る
子どもに、何度も同じことを伝えている。なぜそれをしてはいけないのか。相手はどう感じるのか。その行動を続ければ、何が起きるのか。表面的に叱るだけではなく、なぜそのような行動をしてしまうのかまで、一緒に考えてきた。
それでも、同じことが繰り返される。そんなとき、親はさらに考えることがあります。まだ十分に伝わっていないのだろうか。もっとわかりやすく説明した方がいいのだろうか。子どもの気持ちを、こちらがもっと理解する必要があるのだろうか。
けれど、もし、もう十分に伝えてきたのだとしたら。子ども自身も、何が問題なのかをすでに知っているのだとしたら。そのとき、見る場所を変える必要があるのかもしれません。
「なぜこの子は、まだわからないのか」ではなく、「なぜ私は、まだわからせようとしているのか」。
これは、子どもの問題を親の責任に置き換えるという話ではありません。子どもが何をするのかは、子どもの側にあります。ここで見ようとしているのは、その子どもとの関係の中で、親である自分自身は何を繰り返しているのかということです。
「わかっていないから繰り返す」とは限らない
子どもが同じ行動を繰り返すとき、私たちは「まだわかっていない」と考えやすいものです。だから、もう一度説明します。どうして問題なのかを伝え、子どもの気持ちを聞き、必要であれば自分の行動を振り返るよう促します。
もちろん、それが必要な段階はあります。子どもは最初から、自分の感情や行動の意味を十分に理解できるわけではありません。親や周囲の人との関係を通して、自分の行動が他者にどのような影響を与えるのかを学んでいきます。
しかし、人は「理解したら、その通りに行動する」とは限りません。嘘をついてはいけないと知っていても、その場から逃れるために嘘をつくことがあります。感情に任せて行動すれば相手を傷つけると知っていても、その瞬間の感情を優先することがあります。
理解していることと、実際に何を選ぶのかは、別の問題です。
ここを分けないまま、「また繰り返したのだから、まだ理解できていないのだ」と考え続けると、親はいつまでも「理解させる側」に立ち続けることになります。
子どもの内面まで、親が考えてしまう
子どものことを大切に思っているからこそ、親はその行動の奥まで理解しようとします。なぜこんなことをしたのだろう。怖かったのだろうか。怒られると思ったのだろうか。自分を守りたかったのだろうか。反発したかったのだろうか。
そして、その理由が見えてくると、それを子どもにも説明します。「こういう気持ちがあったから、こうしたのではないか」「嫌なことから逃れようとして、こういう行動になったのではないか」。こうした対話は、子どもが自分の内面を見るための助けになることがあります。
けれど、それを何度も繰り返しているうちに、境界が見えにくくなることがあります。本人が考えるより先に親が理由を考え、本人が自分の感情を探すより先に親が言葉にし、本人が自分の行動と向き合うより先に親がその構造を説明する。
いったい誰が、その子の内面を見ているのでしょうか。
親はいつの間にか、子どもの行動を教え導くだけではなく、子どもが自分自身を理解するところまで引き受けようとしていることがあります。
親もまた、同じことを繰り返しているかもしれない
発達心理学では、親子関係を親から子への一方向の影響だけで捉えない考え方があります。transactional model(相互作用的モデル)では、親の行動が子どもに影響すると同時に、子どもの特徴や行動も親の認識や行動に影響し、その親の反応が再び子どもへ返っていく過程を考えます。
また、親子の相互作用を扱う研究では、日々の反応が繰り返されることで、一定の関係パターンが形成されていくことも検討されています。ここから「あらゆる親子問題は双方が同じだけ原因である」と結論づけることはできません。しかし、子どもの反復だけを見るのではなく、親自身の反応の反復を見る視点は得られます。
たとえば、子どもが何かをする。親が違和感に気づく。何が起きたのかを確認し、なぜその行動をしたのかを考える。その背景にある感情や心理を考え、それを子どもへ説明し、理解できるところまで話そうとする。
ところが、しばらくすると、また同じようなことが起きます。すると親は、「まだ何か伝え足りなかったのだ」と考え、さらに深く考え、さらに説明します。
表面では、子どもが同じことを繰り返しているように見えます。しかし、少し離れて関係全体を見ると、親の側にも反復があります。
子どもが問題を起こすたびに、私は「理解させる人」になる。
子どもの反復を見続けていたために、自分自身の反復が見えなくなっていた可能性があります。
「理解させる人」という役割を見てみる
親が子どもへ何かを教えること自体は当然あります。まだ知らないことを教え、危険なことを止め、他者との関わり方を伝える。それは、子どもの内面を支配することとは同じではありません。
問題になるのは、どこまでを自分の役割だと思っているのかです。必要なことを伝えるだけではなく、子どもが納得するところまで、理解するところまで、自分の行動の理由に気づくところまでを「親である自分が到達させなければならない」と考えているなら、親は子どもの内側へかなり深く入っています。
そこには、愛情や責任感があるでしょう。同じ失敗を繰り返してほしくないという思いもあります。しかし、それとは別に、「私が理解させなければならない」という役割そのものを自分が握っている可能性があります。
そのとき問うことができます。なぜ私は、相手が理解するところまでを自分の責任だと思っているのだろう。なぜ、同じことが起こるたびに、また相手の内面へ入っていこうとするのだろう。
あるところから先は、子ども自身の領域になる
なぜ自分はそうしたのか。そのとき何を感じていたのか。本当は何をしようとしていたのか。自分の行動によって相手に何が起きたのか。そして、これからどうしたいのか。
親は、それを考えるきっかけをつくることはできます。しかし、その答えまで親が見つけて子どもへ渡し続ける必要があるのでしょうか。
自己決定理論にもとづく子育て研究では、子どもの自律性を支えることは、単に好きなようにさせることとは区別されています。必要な枠組みや境界を示しながら、本人が自分の行動や価値を自分自身のものとして引き受けていくことを支えるという考え方です。
外から与えられた価値や規範を本人自身のものとして取り込んでいく過程は、internalization(内在化)として研究されています。「親に言われたからやらない」のと、「自分で考えた結果、やらないと決める」のでは、外から見える行動が同じでも、その内側は違います。
あるところから先は、本人にしか進めません。親が代わりに気づくことも、代わりに自分を見ることも、代わりに選ぶこともできないからです。
子どもに返すことは、放置することではない
子ども自身の領域を子どもへ返すことは、「もう何も言わない」「好きにすればいい」と突き放すことではありません。してはいけないことには、してはいけないと伝える。誰かを傷つけたなら、その事実を見る。謝る必要があるなら謝る。家庭の中で必要な境界があるなら、それを示す。
親として担うところは、親が担います。しかし、子ども自身が見なければならない内面まで親が担う必要はありません。
「必要なことは伝える。しかし、あなたが自分自身をどう見るのかまで、私が代わりに行うことはできない」。
ここまで境界を戻したとき、子どもだけではなく、親にも自分自身を見る余地が生まれます。
同じ現実の中で、自分は何を繰り返していたのか
子ども自身の領域を子どもへ返したあと、自分の側に残っているものを見ることができます。
「この子には、私が教え続けなければならない」「私が理解させなければ、この子は変わらない」「この子の内面で何が起きているのかを、私が見つけなければならない」。もし、このような前提を持っているなら、自分はその関係の中で繰り返し「理解させる人」として存在することになります。
ここで現実創造という視点を入れるとき、子どもの行動まで「自分がつくった」と引き取る必要はありません。相手には相手の意識があり、相手自身の選択があります。
それでも、自分がどのような認識を持ち、どのような役割を握り、その現実にどのように参加し続けているのかを見ることはできます。
自分が相手に何を投影しているのか。目の前の出来事を通して、何を繰り返し見ているのか。その関係の中で、自分はどのような自分として存在し続けているのか。
相手が同じことを繰り返しているように見える現実の中で、自分もまた、同じ自分を繰り返しているのかもしれません。
そう考えると、現実を見る方向が変わります。相手をどう変えるかではなく、その現実を経験している自分自身の認識へ視線が戻ってきます。
投影を見ることと、相手の責任を分ける
自分の内側にあるものが相手を通して見えているからといって、相手の行動まで自分の責任になるわけではありません。相手には相手自身の意識、感情、認識、選択があります。
だからこそ、二つを同時に見ることができます。相手がしたことは、相手自身のものとして見る。その一方で、その相手を通して自分に何が見えているのかは、自分自身のものとして見る。
子どもは、子ども自身を見る。私は、私自身を見る。子どもの選択や内面を子どもへ返しながら、自分の認識や役割は自分の側へ戻す。
この境界があることで、自分を見ることが「何でも自分のせいにすること」になるのを避けられます。同時に、相手の問題だけを見続け、自分自身を見なくなることも避けられます。
「なぜこの子はわからないのか」という問いを反転させる
何度伝えても、子どもが同じことを繰り返す。そのとき、さらに説明することが必要な場合もあります。まだ知らないことがあるなら教える必要がありますし、自分だけでは整理できないことがあるなら、一緒に考えることもできます。
けれど、すでに十分に伝えてきたのなら。本人も、何が問題なのかを知っているのなら。それでもなお、「もっと理解させなければ」と考えている自分がいるのなら、今度はその自分を見ることができます。
「なぜこの子は、まだわからないのだろう」から、「私はなぜ、まだわからせようとしているのだろう」へ。
問いが反転すると、それまで子どもの問題だけに見えていた現実の中に、自分自身が繰り返していた役割が見えてくることがあります。
それに気づいたからといって、子どもの行動を許す必要はありません。親として必要なことを伝えることも、境界を示すこともできます。ただ、自分が持つ必要のないものまで持ち続ける必要はありません。
相手の内面は、相手へ返す。相手の選択も、相手へ返す。そして、自分は自分自身を見る。
相手が変わらないという現実に出会ったとき、相手だけを見続けるのではなく、自分の側へ視線を戻してみる。
私は、この関係の中で、何を繰り返しているのだろう。
その問いによって初めて見えてくるものがあります。
参考資料
Sameroff, A. (Ed.). The Transactional Model of Development: How Children and Contexts Shape Each Other. American Psychological Association. https://www.apa.org/pubs/books/4316113
Lunkenheimer, E. et al. Breaking Down the Coercive Cycle: How Parent and Child Risk Factors Influence Real-Time Variability in Parental Responses to Child Misbehavior. Parenting: Science and Practice. https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC5295527/
Lunkenheimer, E. et al. Understanding the Parent-Child Coregulation Patterns Shaping Child Self-Regulation. Current Opinion in Psychology. https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC7556995/
Joussemet, M., Landry, R. & Koestner, R. A Self-Determination Theory Perspective on Parenting. Canadian Psychology. https://selfdeterminationtheory.org/SDT/documents/2008_JoussemetLandryKoestner_CanPsych.pdf