
人は、なぜ「簡単にできること」を価値が低いと思ってしまうのか|努力しなければ価値にならないと思う理由
人は、自分にとって簡単にできることほど、小さく見積もってしまうことがあります。
「こんなの誰でもできる。」
「特別なことではない。」
「もっと頑張らないと価値にならない。」
そう思いながら、自分の中にある自然な力を見過ごしてしまいます。
けれど、本当にそうなのでしょうか。
自分にとって当たり前のことが、誰かにとっては驚くほど難しいことがあります。
反対に、自分が苦労して身につけようとしていることを、別の誰かは何の力みもなく行っています。
私たちは、自分にとって自然なものほど、その価値を認識しにくいのです。
では、なぜ人は「簡単にできること」よりも、「苦労してできること」の方が価値があると思ってしまうのでしょうか。
人は、苦労したものほど価値があると感じやすい
私たちは幼い頃から、努力することの大切さを教えられます。
頑張ること。
我慢すること。
諦めずに続けること。
もちろん、それらには大切な意味があります。
努力によって身につくものもあります。
困難を乗り越えることで見えてくる景色もあります。
しかし、いつの間にか私たちの中には、別の前提が育っていくことがあります。
「苦労したものほど価値がある。」
「簡単にできるものは価値が低い。」
この前提です。
すると、自分が自然にできることを能力として認識できなくなります。
努力しなくてもできることは、大したことではないように感じてしまいます。
本来は最も自分らしい部分であるにもかかわらず、その自然さゆえに見落としてしまうのです。
当たり前になっているものほど、自分では見えなくなる
毎日見ている景色は、特別には感じられません。
毎日聞いている音にも慣れていきます。
それと同じように、自分の中にある能力も、毎日使っているうちに「普通のこと」になります。
人と話すことが自然な人。
物事を整理することが自然な人。
相手の気持ちを感じ取ることが自然な人。
文章を書くことが自然な人。
それは、その人にとって息をするようなものです。
だから、「できる」という感覚すらありません。
苦労して手に入れたものは強く意識されます。
けれど、もともと備わっていたものは意識されません。
自然であるほど、自分では見えなくなる。
これは人間の認識が持つ、一つの特徴です。
比較は、自分の自然さを見失わせる
もう一つ、人が自分の価値を見失う理由があります。
それは比較です。
比較するとき、私たちは他人の「結果」を見ます。
そして、自分の「足りない部分」と比べます。
すると、自分が自然にできることよりも、自分にないものばかりが目につくようになります。
もっと話せるようになりたい。
もっと知識を増やしたい。
もっと評価されたい。
もちろん、成長することは大切です。
けれど、その過程で、自分がすでに持っているものを忘れてしまえば、いつまで経っても不足感は消えません。
比較は、新しい可能性を見せてくれることもあります。
一方で、自分の自然な価値を見えなくしてしまうこともあります。
社会は「努力が見えるもの」を評価しやすい
私たちは、自分だけの問題として生きているわけではありません。
社会の価値観にも影響を受けています。
分かりやすい努力。
長い労働時間。
苦労話。
資格。
実績。
こうしたものは、目に見えます。
だから評価しやすいのです。
一方で、自然にできることは見えません。
無理なく人を安心させる人。
場を整える人。
本質を見抜く人。
話を最後まで聞ける人。
それらは数値になりにくく、証明もしにくいため、価値として認識されにくいことがあります。
すると私たちも、目に見える努力ばかりを価値だと思い始めます。
本来の価値ではなく、「評価されやすい価値」を追いかけるようになるのです。
努力が悪いのではない
ここで誤解したくないことがあります。
この記事は、努力を否定したいわけではありません。
努力によって広がる世界があります。
努力しなければ届かない場所もあります。
問題は、努力そのものではありません。
努力しなければ価値がない。
苦労しなければ意味がない。
そうした前提です。
この前提があると、人は自分を証明するために努力するようになります。
努力は、本来自分を育てるものです。
けれど、自分の価値を補うためのものになった瞬間、苦しさが生まれます。
自然にできることには、その人らしさが現れている
人は、自分らしくあるとき、どこか力みがありません。
無理をしていません。
頑張って見せようともしていません。
気づけばやっています。
理由は説明できなくても、自然とそちらへ向かっています。
そこには、その人らしさがあります。
それは才能という言葉だけでは表せません。
その人の在り方です。
誰かを安心させる人は、安心を与えようとしているのではなく、その人自身が安心という状態で生きているのかもしれません。
複雑なことを分かりやすく伝えられる人は、分かりやすく見せようとしているのではなく、その人の中で物事が自然に整理されているのかもしれません。
人は、自分そのものを生きているとき、一番自然になります。
その自然さが、他者から見ると価値として映ることがあります。
価値とは、苦労の量では決まらない
私たちは、ときどき価値を履き違えます。
どれだけ苦労したか。
どれだけ時間をかけたか。
どれだけ頑張ったか。
もちろん、それらが尊い場面もあります。
けれど、人の価値は苦労の量だけでは決まりません。
誰かを笑顔にした一言。
安心して話せる空気。
何気なく差し出した気遣い。
それらは本人にとって自然であるほど、「大したことではない」と思われがちです。
しかし、その自然さによって救われている人がいます。
だから、自分が簡単にできることを軽く見ないことです。
そこには、努力して作ったものとは違う、その人だけの質があります。
もし今、自分には特別なものがないと思っているなら、一度だけ立ち止まってみてください。
自分が苦労して身につけたことではなく、昔から自然にやってきたことは何でしょうか。
人から感謝されても、「そんなことくらいで」と思ってしまうことは何でしょうか。
もしかすると、それこそが、自分では見落としてきた本来の価値なのかもしれません。
人は、自分にとって簡単にできることほど、小さく見積もってしまいます。
しかし、その自然さの中には、努力だけでは手に入らない、その人だけの在り方が静かに表れています。
価値とは、苦労の量だけで決まるものではありません。
自分にしかない自然さに気づいたとき、人は初めて、自分という存在を別の景色から見ることができるのです。