
なぜ私は、ずっと「構造」を見ようとしてきたのか|問いはどこから生まれるのか
私は、目の前にあるものを、そのまま見て終わることがあまりありません。何かが起きていると、何が起きているのかだけではなく、なぜそれが起きているのかが気になります。
社会に制度があれば、その制度がどのようにつくられ、なぜ私たちはそれを当然のものとして生きているのかを見る。人がある行動をしていれば、その行動だけではなく、その背後にどのような認識や経験があるのかを見る。
一つの説明に辿り着いても、その説明を成立させている前提が気になります。
そうして考えていくと、私はずっと、目に見えている現象そのものより、その背後にある仕組みや構造へ視線を向けてきたように思います。けれど最近、そのこと自体に、別の問いを感じるようになりました。
そもそも、なぜ私はそこを見るのでしょうか。
遊具の仕組みを見ていた子ども
10年ほど前、母から、私の幼い頃について聞いたことがあります。
公園へ連れて行っても、私は遊具そのもので遊ぶことだけではなく、それがどのような仕組みで動いているのかをよく見ていたそうです。
どこが、どことつながっているのか。なぜ、このように動くのか。
幼い私が実際に何を考えていたのかは、今となっては分かりません。母から聞いた一つのエピソードによって、現在の自分を説明することもできないでしょう。
それでも、この話は時々思い出します。現在の私も、対象こそ違いますが、似たことをしているように見えるからです。
社会を見る。制度を見る。文化を見る。言葉を見る。そして、それらを受け取っている人間の認識を見る。何があるのかだけではなく、それが何によって成り立っているのかを見る。一つの構造が見えれば、その構造を成立させているものを見る。そうして奥へ進んでいく。
遊具と社会では、もちろんまったく違います。それでも、目の前に現れているものから、その背後へ認識が動いていくという点では、どこか似ています。
同じものを見ても、同じ問いは生まれない
ここで興味深いのは、人は同じものを見ても、同じところに注意を向けるわけではないということです。
公園の遊具を前にして、身体を動かして遊ぶことに夢中になる子どもがいる。形や色に惹かれる子どもがいる。誰かと一緒に遊ぶことを楽しむ子どももいる。そして、その遊具がどうして動くのかに注意を向ける子どももいる。
どれが優れているということではありません。ただ、同じ世界を前にしても、注意が向かう場所が違います。
大人になってからも、おそらく同じです。
ある制度を前にして、その使い方を知ろうとする人がいる。不便なところを改善しようとする人がいる。その制度が成立した歴史を調べる人もいる。そして、なぜ人間がその制度を当然のものとして受け入れるのかが気になる人もいる。
そこで違っているのは、答えだけではありません。
答えを探し始める以前に、何が「問い」として立ち上がるのかが違っています。
考えてみれば、これは不思議なことです。
人間は、最初からまったく同じではない
発達心理学や認知科学の研究を見ると、幼い子どもは、世界をただ受動的に受け取っている存在ではないことが分かっています。乳児期から、予想外の出来事へ注意を向け、因果関係を捉え、世界がどのように成り立っているのかを探索する働きが見られます。
さらに興味深いのは、その探索の仕方にも早い段階から個人差があることです。
2026年に発表された縦断研究では、生後8か月の乳児について、新しい情報を得られそうな対象へどの程度注意を向けるかに個人差が確認され、その違いが3歳半の認知能力とも関連していました。
気質についても、反応の仕方、注意、自己調整などに早期から個人差が存在します。そして現在の研究では、そこに遺伝、脳の発達、胎内環境、出生後の環境、文化など、複数の要因が関係すると考えられています。つまり、人間は全員がまったく同じ状態から始まり、その後の経験だけによって違っていく、と単純に考えることはできません。
私が仕組みや構造へ注意を向けやすいことにも、こうした認知や気質の個人差が関係している可能性があります。
それなら、一つの説明にはなります。けれど、私にはそこで問いが終わりません。
「どのように」と「なぜ」は、同じ問いなのだろうか
ある人の認知的な特徴に遺伝的要因が関係している。
脳の働きにも個人差がある。
胎内環境や幼少期の経験によって、その後の認識のあり方が変わっていく。
こうしたことが分かれば、「人間の違いがどのように形成されるのか」は少しずつ見えてきます。けれど、ここで私は、二つの問いが混ざっているようにも感じます。
一つは、この違いは、どのような仕組みによって生じているのかという問いです。
もう一つは、なぜこの人は、この方向を持つ存在としてここにいるのかという問いです。
前者については、科学によってかなり深く調べることができます。しかし後者まで同じ方法で答えられるのかは、私には分かりません。
脳に違いがあることが分かったとしても、「脳に違いがある」という事実と、「なぜ私はこの方向へ認識が向くのか」という問いは、本当に同じことを説明しているのでしょうか。
ここまで来ると、そもそも人間をどのような存在として捉えるかという問題が現れてきます。
身体を持つ以前から、「向き」はあるのだろうか
私は、人間を身体だけで完結する存在とは考えていません。
霊が先にあり、人間とは、霊が身体を通してこの世界を経験している存在である。
その地点から人間を見るなら、もう一つの可能性を考えることができます。
私たちは、身体を持つ以前から、何らかの「向き」を持っているのではないか。
ここでいう「向き」は、知識のことではありません。生まれる前から社会制度について知っていた、という話でもありません。
もっと手前にあるものです。何に惹かれるのか。何に違和感を覚えるのか。何を通り過ぎることができないのか。何を知ろうとするのか。世界のどこへ、自然と認識が動いていくのか。
完成された人格や記憶ではなく、もっと原初的な方向性のようなものです。
もしそのようなものが身体以前から存在するのであれば、脳や気質についても、別の見方が可能になります。
それらは「私」という存在の方向性をすべて生み出している原因なのか。それとも、より深いところにある何かが、この物質世界の中で現れるための媒体でもあるのか。
今のところ、私はその答えを知りません。
身体以前を考える研究も存在している
この領域について、まったく研究が存在しないわけではありません。
たとえば、米国バージニア大学医学部のDivision of Perceptual Studiesでは、幼い子どもが「以前の人生」とされる記憶を自発的に語る事例が、50年以上にわたって研究されています。
同研究部門には2,500件を超える事例が蓄積されており、子どもの発言だけでなく、行動上の特徴、恐怖や嗜好、出生痕なども記録されています。また、この領域の学術研究を整理したスコーピングレビューでは、78件の研究が確認され、その多くが子どもを対象としていました。
ただし、ここは慎重に見る必要があります。
これらの研究の多くは観察研究やケース研究です。そこから、輪廻や身体以前の意識が科学的に証明されたと結論づけることはできません。まして、「人間は身体以前から認識の方向性を持っている」ということを直接示した研究でもありません。
それでも、人間の意識や個人性をどのように理解すべきなのかという問いに対して、通常の発達研究や脳研究とは異なる現象を対象に、長期にわたって資料を蓄積している研究領域が存在していることは確かです。
私は、この研究からすぐに答えを得たいわけではありません。むしろ、身体と脳の側から人間を見る研究と、身体だけでは説明できない可能性を調べている研究。その両方を見ながら、人間とは何なのかを考えていきたいと思っています。
考える前に、すでに何かを見ている
そして、ここまで考えていて、もう一つ気づくことがあります。
私たちは、「考えること」によって問いをつくっていると思いがちです。けれど実際には、考え始めるより前に、すでに何かが気になっています。
世界には、同時に無数のことが起きています。そのすべてについて、私たちは問いを持つわけではありません。
ほとんどのものは、そのまま通り過ぎていきます。けれど、あるものだけが引っかかる。そこで立ち止まる。「なぜだろう」と思う。そして、そこから思考が始まります。
そう考えると、問いの始まりは、思考そのものより少し手前にあるのかもしれません。
何を問いとして受け取るのか。
そこにはすでに、その人の世界への向き方が現れています。
問いは、どこから生まれるのか
幼い頃、公園で遊具の仕組みを見ていたという私と、社会や人間の認識を見ている現在の私。その二つの間に、本当に一本の線が通っているのかは分かりません。
遺伝や気質によって説明できる部分もあるでしょう。人生の経験によって強くなった部分もあるはずです。そして、それより前から何らかの方向性を持っていた可能性も、私は閉じたくありません。
ただ、一つ確かなのは、私は今も、目の前にあるものだけではなく、その背後を見ようとしているということです。
社会を見ると、制度が見える。制度を見ると、それを生み出した歴史や文化が見える。その奥を見ると、それを当然のものとして受け取る人間の認識が見えてくる。そして人間の認識を見ていると、最後には、その認識を見ている自分自身が視界に入ってきます。
なぜ私は、そこを見るのか。なぜ別の誰かは、別のところを見るのか。なぜ、あるものは通り過ぎられるのに、あるものは問いとして残るのか。
もしかすると、人間を理解するためには、私たちがどのような答えを持っているのかだけではなく、そもそも何を問いとして受け取っているのかを見る必要があるのかもしれません。
そして、そのさらに手前には、まだよく見えていない何かがあります。
私たちは、世界のどこを見るのかを決めているその「向き」を、いったいどこから持ってくるのでしょうか。
参考資料
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Individual differences in information demand have a low dimensional structure predicted by some curiosity traits https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC11551435/
The Systemizing Quotient: an investigation of adults with Asperger syndrome or high-functioning autism, and normal sex differences https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC1693117/
Children Who Report Memories of Past Lives, University of Virginia Division of Perceptual Studies https://med.virginia.edu/perceptual-studies/our-research/children-who-report-memories-of-previous-lives/
Academic studies on claimed past-life memories: A scoping review https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/34147343/