Quiet Signals

日常の観察・問いの記録

読み終えない、贅沢

最近、本を最後まで読み終えたでしょうか。

読み始めたものは最後まで読む。

途中でやめるのは、どこか中途半端な気がする。

本を買ったのだから。

時間を使ったのだから。

最後まで読まなければもったいない。

そんな感覚を、多くの人が一度は持ったことがあるように思います。

読み終えることは、達成でもあります。

一冊を読み切ったという満足感。

知識を得たという実感。

それらは決して悪いものではありません。

けれど、本を読んでいると、ときどき別の時間が訪れます。

ある一文で手が止まる。

ページはめくられません。

窓の外を眺めてしまう。

昔の出来事を思い出す。

文章を読んでいるはずなのに、意識は本から離れています。

けれど、その時間は、本から離れているのでしょうか。

むしろ、その一文が、自分の中で読み続けられている時間なのかもしれません。

私たちは「何ページ読んだか」は覚えていても、「どの一文が自分を動かしたか」は案外忘れています。

読書は、本を最後まで読むことなのでしょうか。

それとも、一つの言葉と出会うことなのでしょうか。

読み終えなかった本は、本棚に残ります。

以前は、その背表紙を見るたびに、途中でやめたことを思い出していました。

けれど最近は、少し違って見えています。

まだ読み終えていないのではなく、まだ対話が終わっていない。

そう思うことがあります。

本は、読む速さを競うものではありません。

知識を集めるためだけのものでもありません。

人と人との対話に終わりがないように、本との対話も、一冊を閉じた瞬間に終わるわけではないのでしょう。

読み終えないまま、本棚へ戻す。

その未完の時間を受け入れられるようになったとき、読書は「理解すること」から、「ともに過ごすこと」へと少し姿を変えるように思います。

読み終えないこと。

それもまた、本を読む一つの豊かさなのかもしれません。

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